漢字の伝来とその変容
そもそも仏教はインド北部の土俗信仰の中から生まれ、その基層の上に紀元前五世紀頃、釈迦という人物によって世界宗教として大成されたもので、その世界性から当時のインド諸地域の国王や大商人の支持を得てインド国内に広められ、やがて北方と南方にその内容も変容しながらアジア各地へと広まっていった。 北進ルートでは西域に入り中国、朝鮮、日本へと伝えられ大和朝廷時代に受け入れられている。そのことが記されているのは「日本書紀」欽明紀13年(552年)と記されている。これでは宣化天皇3年に仏法が伝来するが広まったとはいえず排されている。 実はこのとき、百済は高句麗、新羅との連合軍に攻められて窮地に陥り、大和朝廷に救援を求める代わり釈迦の金銅仏像を寄進している。 そこでは、こんな逸話が残っている。 「これを期に仏教を伝え流通させたいと言ってきたので、欽明天皇は群衆を集め、百済が美しい仏像を寄進してきたので仏像を敬ってはどうかと言った。これを聞き蘇我大臣は諸国が礼拝しているのに日本もしないわけにはいかないと言った。それに対して物部大臣は我が国には多神教の神々が居るので国神が怒りますと。そこで、天皇は物部氏に試みに仏をまつるように指示した。」という。これが当時の大和朝廷の仏教の理解と受容である。 百済から日本兵仏教伝来は、「日本書紀」に記される欽明天皇6年9月と言われている。ただ、なにをもって伝来したと確定できるかとなると、これは躊躇せざるをえない。ある人物が仏典を国王に献上したのを伝来とするか、ある程度支配階層の流布した時を伝来とするのか、公的に認められたのを伝来の時期とするか、どの程度普及したら伝来したというのか。問題は残る。普及もしくは、仏教への理解は、その知識や事前理解やそれを受け入れる前向きな姿勢や情熱、さらに広める地位や権限もないと普及しえない。誰が理解し、それを日本に普及させるべきだと考えて意欲的に広めようとしたか。そこに仏教伝来の意味がある。 高句麗、新羅の僧は、儒教や各種の中国文化にも精通する知識人で、仏教を読解し伝えた僧侶の役割こそが文字、他の文化も含めて他国へと伝える大きな役割を果たしている。 僧侶は当時の文化全般の伝道師であり、仏教もその一つだったと考えるのが正当である。 言うまでもなく中国文化の受け入れは朝鮮も日本も積極的だったが、朝鮮では高句麗と百済が四世紀後半に受容し、新羅は「百済の僧が首をかけて白い血が噴き出すこと」で初めて仏教を六世紀前半に受け入れるほど消極的で、それまでは固有信仰を持っていたことを示している。多神教の日本も新羅同様に、宗教の内容と言うよりも建築工芸などの文化を背景に、漢字を受け入れ使用していく過程で仏教の宗教性に触れ、理解できていったといえる。仏像や寺院建築に神秘さを感じ、宗教の内容は理解できず従前の神と仏を同一視しながら受け入れるように程度のものも伺える。 当然、朝鮮でも三国時代の高句麗、百済と新羅ではその仏教性も変化しているように、日本では庶民には普及せず貴族僧の理解から仏に神が救いを求めるような歪曲も受容の過程で氏神制として行われ、庶民には村落共同体の神に癒着する形での発展が開始されていた。