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カテゴリ:グットな人
けさ、ラジオで鈴木杏樹が泣いていた。
彼女が話していたのは、あのエルトゥールル号遭難事件。 明治23年9月16日、日本近海でトルコ船籍のエルトゥールル号が台風による強風に あおられて、紀伊大島の樫野崎の岩礁に激突し沈没してしまう。 587名が死亡、もしくは行方不明になる大惨事となった事件だ。 このとき樫野崎灯台に流れ着いた生存者が69名いたという。 当時の大島村(現在の串本町)樫野の住民達は、総出で生存者の救助と介抱にあたった。 住民達は台風の影響でずっと出漁することが出来ず、この時、村の蓄えはわずかだった。 しかし、村人達は浴衣などの衣類、卵やサツマイモ、それに非常用のニワトリまで トルコの生存者に供出し、献身的に面倒を見たのだった。 やがて、このことは、明治天皇の知るところとなり、 日本国として可能な限りの援助を行うように指示がだされた。 生存者達は、日本の船でトルコに帰ることが出来たのだった。 時は流れて 1985年3月12日。『アメリカの支援を受けたサダム・フセイン』は、 イランの首都テヘランに対する空爆命令をだす。そして、”3月19日以降、イラン上空を 飛行する全ての航空機を撃墜せよ”との命令が出された。 この時、イランには、日本人が1000名近く居た。タイムリミットが近づくなか、 多くの日本人が順次脱出したが、それでもイランの空港には約300名の日本人がまだ 残ったままであった。 外務省が、日本航空(JAL)に救助依頼を出すが、タイムリミット前にイラン上空を 脱出することが出来ないとの理由で、日本航空は要請を拒否する。 取り残された日本人は死を覚悟した。 その時、大空の彼方から、イランのメへラバード国際空港に、きらりと光る、 一機の航空機が近づいてきた。 やがてその飛行機は滑走路に滑り込む。トルコ航空の飛行機だった。 日本の外務省は、最後の望みを託し、トルコ大使館のビルレイ大使に、 日本の窮状を説明し、緊急フライトを依頼したのだった。 この時、ビルレイ大使は、 ”トルコ人誰もがエルトゥールル号の遭難の際に受けた恩義を知っている。 今こそ、あの時のご恩返しをさせていただきます。”といったそうだ。 トルコ政府から要請されたトルコ航空本社では、その要請に緊迫し、やがて選りすぐりの 機長、アリ・オズデミルに業務命令が出された。アリは業務命令を読み上げたとき、 スタッフに対してこう言った。 ”今回は命を懸けたフライトになる。だから命令を拒否してもかまわない。” しかし、副操縦士以下、命令を拒否するものは誰もいなかった。 スタッフの一人が言う ”我々を待っている人たちがいる。直ちにフライト準備にかかりましょう” アリ機長は、危険なイラン領空を避けて、カスピ海を南下しつつ一路、イランを目指した。 無事イランに到着し、タイムリミットぎりぎりにイランの空港を飛び立つことが出来た。 ふつう、民間機は雲を避けて視界の良いところを飛ぶのだが、アリ機長は、 ミサイルを回避するため、なるべく雲の中を隠れてジグザグに飛び続けた。 そして、離陸から2時間30分後、機内にアリ機長のアナウンスが流れた。 ”Welcome to Turkey!"(ようこそトルコ共和国へ) この時、搭乗した215名の日本人は全員無事だった。 このエピソードを、”友情の翼”という。 だけれど、日本人の大半は、この話を知らないと思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.04.25 12:08:31
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