|
カテゴリ:歴史
もつれに、もつれた戦国時代に終止符を打った男。
誰もが知る、徳川家康だ。 その家康に、堂々と正面から戦って、二度、勝った武将がいる。 名前を”真田昌幸(さなだまさゆき)という。 有名な真田幸村の親父さんだ。 一度目。 第一次上田合戦 徳川軍7000名 真田軍2000名 結果、真田軍の死者40名、徳川軍の死者1300名以上。 真田の完勝だった。 そして、時は流れ、第二次上田合戦へ 徳川軍3万8000名 真田軍2500名 この日の徳川軍は、天下分け目の戦いに向けての徳川主力部隊だった。 家康は、この主力部隊に自身の優秀な武将をほとんど同行させていた。 にもかかわらず、真田に勝つことは出来なかった。 そして、この主力部隊が関が原に到着したのは、 天下分け目の決戦が終わった4日後だった。 真田昌幸には二人の息子がいた。 一人は、大阪夏の陣で、徳川家康をあと一歩まで追い詰め、そして華々しく散った、 ”日本一のつわのも”と言われた男、真田幸村。 そして、もう一人は父と弟を捨てて、義のために徳川についた、兄の真田信幸。 江戸時代に入った後、信幸の経営手腕は素晴らしく、領民から名君と呼ばれていた。 すると、信幸は、 ”領主が名君だと言うことは、百姓が米を作り、商人が物を売るのと、 同じ事で、あたりまえのことなのだ。”といったそうだ。 信幸が土台を作った真田松代藩は、その後250年にわたり幕末明治まで生き残った。 最後に、あの有名な真田の旗(真田の六文銭)の意味を書いておきたい。 死者が、三途の川を渡るときの渡し賃が、”六文(ろくもん)かかるそうだ。 つまり、真田は、戦争においても、平時においても、死ぬ覚悟で闘っていたのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.06.18 23:45:34
コメント(0) | コメントを書く
[歴史] カテゴリの最新記事
|