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カテゴリ:グットな人
ベートヴェンは、かつて言った。
私は、運命が扉を叩くように、曲を創っている。と 運命は時として不思議なことをする。 中村ブレイスの社長は、なぜ様々な会社がある中で、義肢の会社を興したのか。。。 中村社長は、5人兄弟の末っ子で、お父さんは小さい町の公務員でした。 生活は決して楽なほうではなかった。 地元の高校を卒業した中村さんは、進学を断念して就職することにします。 その時のささいなきっかけが、 中村社長の後の人生を”運命”づけることになる。 なかなかいい就職先が見つからなかった中村少年は、 ある日お姉さんに就職の相談に行きました。 お姉さんは、国立病院の事務職をやっていました。 お姉さんに将来のことについて相談していたところに、 その病院の副院長先生が”偶然”通りかかります。(まさに運命!) 二人の会話をじっと聞いていました。 するとその偉い先生は、二人の会話に割って入ってきました。 ”病院に出入りしている京都の業者がいる。義手とか、義肢をつくっている 会社で、とても大切な仕事だ。君もそういう技術を身につけたらどうだろう”と 言ってくれたそうです。 その先生の口利きで、中村少年は、なんとかその会社に就職させてもらうことが出来ました。 仕事の関係で、中村少年は、よく病院に納品に来るそうです。 その時、様々な医師と交流が生まれます。 そして、ほとんどの先生が、”来月はアメリカで発表する”とか”ドイツの学会で最先端の 医療技術が紹介された。”などと、若い中村さんに、いろいろな話をしてくれたそうです。 その中の一人の先生が、 ”中村君も、もっと勉強するといいよ。それに若いうちに海外に行って最先端のものに 触れて、見聞を広げるというのは、すばらしいことだよ” といって、励ましてくれた先生もいたそうです。 中村さんも、だんだんとその気になってゆきます。 しかし、仕事を持つ身だったので、会社に迷惑がかからないようにと、 近畿大学の通信教育課程に入学します。しかし実際には、実習や実技があり 登校しなければならない日も多かったそうです。 終業と同時に会社を飛び出し、夕食もとらず片道2時間30分かけて大学へ通ったそうだ。 講義を終えて、下宿先へ帰ってくるのは、夜中の12時過ぎだった。 通信教育を終えて、三ヵ月後、中村さんは一つの決断をします。 貯めたお金で、アメリカに行くことにしたのでした。 中村さんのがんばりを見ていた、勤め先の社長さんは、中村さんに一ヶ月もの休みを認めて くれたうえに、餞別までくれたそうです。 中村さんが、アメリカで最初に訪れたのは、 ホズマー社という世界的な義肢装具の会社だった。 中村さんは、そこでも、またいい出会いに恵まれます。 ホズマーの副社長が同じく義肢装具を営んでいる日系人の方を紹介してくれたのだった。 しかも、その日系人社長の奥様のご両親は、中村さんと同じ島根県の出身だった。 中村さんの、とても真面目で熱心に勉強している姿を見て、日系人の社長さんは、 中村さんをとてもかわいがってくれたそうです。 さらには、 ”アメリカには大きな病院もたくさんあるし、とても勉強になるだろう。 もし、よければうちで働かないか”と誘ってくれたのです。 帰国後、中村さんは京都の会社にわけを説明し、会社を辞めることにしました。 6年間働いた退職金を手に、今度は本格的にアメリカへ渡りました。 中村社長、24歳の時でした。 中村さんは、アメリカで昼間は仕事をして、夜は英会話スクールに通い、 ものすごい勢いで、技術を吸収していった。 そして2年半後、再び日本に帰ってくる。 当時の日本は、まだ義肢など扱うところはほとんどありませんでした。 その頃の日本では、”手がなくなったら、あきらめるしかない。”という感覚だった。 知り合いも、ニーズのない仕事をするのだから、ぜめて東京や大阪などの 大都市で開業した方がいいよ”とアドバイスしてくれた。 しかし、あえて中村さんは、故郷の島根県にこだわりました。 生まれ故郷に戻り、たった一人で創業しました。 当然、仕事はまったくありませんでした。 はじめの一ヶ月は、雪かきばかりしていたそうです。 やがて、はじめての仕事が来ます。 ”腰が痛い”という親戚の注文でつくったコルセットでした。 それからは、中村の確かな技術に、口コミで徐々にお客様が増えていきました。 そして、この会社がさらに大きく飛躍をするきっかけとなる 一人目の社員が入社してくるのでした。 しかし、その一人目の社員は、いきなり出社拒否をしてしまうのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.02 18:57:41
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