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カテゴリ:トヨタ自動車の考え方
豊田自動織機製作所の創業者、豊田佐吉に待望の赤ちゃんが生まれた。
名前を、豊田喜一郎といった。 豊田佐吉はゼロから作り上げた、自動織機のヨーロッパにおける特許を イギリスの会社に売却することを決めた。 そして特許を売却して得た大金を、彼は。。。 ”日本製の自動車をつくろう。”と考えたのだった。 佐吉は、売却した特許料100万円(現在の貨幣価値でおよそ6億円)すべてを、 息子の豊田喜一郎に渡し、 国産自動車の研究、開発を命じた。 佐吉は言った。 ”わしは織機で国のためにつくした。お前は自動車を作って、お国のためにつくせ!” 豊田自動織機製作所の片隅に、自動車部(後のトヨタ)がさっそくつくられた。 しかし、自動車を作るということは大変なことだった。 製造には、おどろくほど多用な技術を必要とし、 大財閥であった、三井や三菱ですらあきらめたほどの金食い虫だった。 喜一郎は言った。 ”無理だから、 困難だから、 うちがやるんだ。 これで会社を潰しても親父は怒るまいよ。” その後、喜一郎は数々の問題にぶつかる。 エンジンのシリンダーブロック一つ作るのにも、 失敗して捨てた試作品の数は500以上だった。 周囲からは。。。 ”道楽のバカ息子””無駄な投資だ!”などと厳しい言葉を投げつけられた。 しかし、昭和9年 9月25日、とうとう 6気筒直列エンジン 65馬力の A型エンジン第1号を完成させた。 そして昭和11年 9月14日、トヨタAA型乗用車が完成したのだった。 そして不幸な戦争による中断を経て、 これからと言う時 昭和27年 3月27日、走り続けた豊田喜一郎は、 設計図を広げたまま倒れ、 意識が戻ることはなかった。 享年 57歳だった。 喜一郎の死後3年。 意志を受け継いだスタッフたちの努力が実を結び 後にトヨタの看板商品となる、トヨペットクラウンが生まれるのだった。 おわりに豊田喜一郎の言葉を紹介したい。 ”一本のピンも、その働きは国家につながる。” トヨタが世界一の会社になったのは、 その一本のピンの大切さを知っていたからである。 トヨタは生まれながらにして、トヨタではなかった。 コツコツと地道に努力を積み上げて、トヨタになったのだった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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