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カテゴリ:太平洋戦争の追憶
8月9日付けの、西日本新聞に一つの記事が載った。
現在、日本の原子力発電所で、放射能漏れが起きたら大騒ぎになる。 過去、学校や病院のある大都市の上空で原子爆弾が炸裂した。 ファットマンとは、 長崎に投下され7万人以上もの命を奪った原子爆弾の名前。 日本語に訳すと、”ふとっちょ”という意味になる。 去る、8月8日、ひとりの老女が長崎に降り立った。 老女の名は、ジョアン・ヒントン。歳は86歳。 第二次世界大戦中、 当時のアメリカでは原爆の製造計画(マンハッタン計画)がおこなわれており、 彼女は大学院の学生だった。 すぐれた才能の持ち主で、24歳の若さで原爆製造計画に抜擢された。 ヒントンは、当時、こう聞かされていた。 ”原爆を砂漠に落として、脅威を敵に知らしめて、 ドイツの核兵器使用を未然にやめさせるのが目的” しかし、現実は違った。 子供や赤ちゃんのいる、都市の上空で。。。 彼女は、広島への原爆投下を新聞で知った。 ”まさか”と思った。 3日後には、プルトニウム型原子爆弾が長崎に落とされた。 彼女は、祖国アメリカのした行為が許せず、 1948年に中国に移り住み、北京郊外で酪農をしながら 現在まで核廃絶を訴え続けてきた。 そして、今年、彼女は、長崎の原爆資料館に行った。 そこで、熱で溶けたガラスや重傷を負った人々の写真を見た。 ”なんて。。ひどい。。。”と、つぶやいて、うつむいてしまったそうだ。 そして、彼女はこういった。 ”わたしは研究成果だけを求める純粋な科学者だったことを恥じる。 若い科学者には、自分の行為が招く結果を考えて行動してほしい ” わたしもホノルルに何度か行く機会があったが、 いまだに真珠湾には行くことができないでいる。 この老女の人生も、一つの爆弾でかわってしまった。 もうすぐ。。。また8月15日がくる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.08.10 10:08:15
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