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カテゴリ:徳川家康
いままで、疑問がありました。
なんで、家康は 自分の主力部隊(3万6千)が到着する前に、関が原に向かったのか? しかも、あえて大垣城にこもる石田三成を挑発し、誘い出してまで。。。 どう考えても、 家康は、関が原に行く前に、すでに”勝つ”ことが分かっていたとしか思えない。 西軍 10万 東軍(家康軍)7万5千 家康の方が、兵の数は、はるかに少ない。 家康が 早朝、関が原に到着した時、 家康の中では、関が原の戦いは終わっていた。 あとは録画の再放送を見るようなものだった。 家康は、生涯に 平均して、だいたい一ヶ月に2通の割合で手紙を書いている。 ところが関が原の戦いのあった直前、 家康は 3ヶ月間で、 現在、資料として分かっているものだけでも 184通もの手紙を全国の大名に送っている。 手紙を出す相手、 出すタイミング、 緻密な計算をして。。。 そして、手紙を送った108人のうち99人を味方にしていた。 家康は若い頃、戦国最強と言われた武田信玄に一方的に負けている。 しかし、信玄は家康に勝って、まもなく死んでしまう。 それを聞いて、よろこぶ家臣たちに 家康は言います。 ”信玄こそ、われわれの師であるといってもいい。 隣国に強敵があれば、むしろ幸いである。 なぜなら、こちらは油断、怠りなく励み、また、かりそめの仕置きにも 心をつかうゆえに政治も正しくなり、家も整うというものだ。 もし隣国に強敵がなかったら 味方は武力を怠り、上下ともに己を高く持って(プライドが高くなって) 恥や恐れる心を持たなくなってしまうため、だんだん弱くなるものだ。 ” ”信玄のような敵将の死を味方が喜ぶ理由などない。”と一喝する。 家康は、信玄を徹底的に研究する。 信玄を研究するということは、 ”風林火山”の孫子(そんし)に触れることでもある。 孫子の兵法とは、 ” 戦わずして勝つこと ” 家康にとっての 関が原の戦いは、 後世の歴史年表の日付とは。。。すこしだけズレている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.10.13 08:38:18
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