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カテゴリ:グットな人
岡山県の倉敷市に世界的に有名な、美術館がある。 ”大原美術館” 国が作った美術館ではなく、大原さん個人が作った美術館。 今では、年間100万人もの観光客が訪れる。 山形県の人口とほぼ同じ! 大原孫三郎は、同郷の、これは!と思う若者たちに奨学金を出し面倒を見ていた。 その中の一人に、児島虎次郎という若い画家がいた。 大原は、児島の才能を買い、ヨーロッパへ5年間留学させる。 児島は、日本にいる大勢の画家仲間たちを思い、大原に手紙を書く。 ”日本にいる画家たちに本物の絵を見せてやりたい。せめて1点だけでも 本物の絵を購入し、日本へ持ち帰り、勉強の材料にしたい。”という内容のものだった。 大原は、さっそく大金を送金し。。。 アマン・ジャン作の”髪”という洋画を買った。 しかし、その後も絵画の購入は一点だけでは終わらず。。。 次々に購入されていった。 大原は、理想を抱いて勉強する男が好きだった。 一度、その男を信じたら、どこまでも面倒を見る。どこまでも尽くす。 それが、大原孫三郎の流儀だった。 そして、ほとんど無条件で、大原は その後も児島へ資金を提供し続けた。 しかし。。。 大原の活躍した日本の大正時代は。。。 軍事国家の色合いが濃く、西洋絵画は見向きもされなかった。。。 大原美術館の来館者数は、1日10人が普通で、一人もお客さんが来ないときもあった。 大原は、晩年こう言っている。 ”わたしのはじめた事業で、一番重荷になるのは、美術館(大原美術館)じゃ。。。” しかし、大原は、口癖のように言っていたもう一つの言葉がある。 ”わしの目は、十年先が見える。” 余談だが 福田元総理が、辞任会見で、話した言葉の中に ”私には先を見通すことの出来る目がある。”と言った言葉は、 じつは、大原孫三郎の言葉から来ているように感じたのは私だけだろうか。。。 話を戻すと、 大原孫三郎のおかげで、 太平洋戦争末期、原子爆弾の投下場所が、岡山ではなく、となりの広島へ変更されたと 言われている。 その理由は二つある。 ひとつは、昭和7年、満州事変の調査のため日本に訪れた、 リットン調査団の団員の一人が、大原美術館を訪れた。 そして、そこでエル・グレコをはじめとする名画の数々を目にして驚愕する。 ”なんで、アジアの小国の。。しかも。。こんな地方都市の美術館に○☆!*@%” 来館者数が1日、10名にも満たない美術館の価値を最初に認めたのは、 じつは皮肉にもアメリカ人だった。 そのため、世界的な美術品を焼いてはならぬ。と キョウトとならび、クラシキもアメリカの爆撃目標から除外されたのだった。 そして、もう一つの理由は。。。 明治40年、岡山に陸軍の師団が設置され、倉敷にも一個連隊が配備されることになった。 町では、お金が落ちることにもなり、軍隊受け入れ賛成派が大勢を占めた。 しかし、大原孫三郎はひとり大反対した! まだ30にもならない、若い女子工員を大勢、親から預かっている身として、 ”町の風紀が乱れる”といって激しく軍隊受け入れに反対する。 当時、軍に歯向かうということは。。。 ”非国民””国賊”だと罵られたのだった。 あるとき、軍隊誘致に反対している大原に、 過激な若者が、 ”きさま 右の耳を切り落としてやろうか!”と言った。 大原は、 おだやかな顔で、 ”耳の一つぐらい、平気じゃ。まだ左の耳がある。”と言って笑ったそうだ。 大原の一歩もひかない態度に、 とうとう軍隊受け入れ派も折れ、 倉敷への軍隊配置計画は流れた。 結果、倉敷は軍事基地を持たない町となり、 さらにアメリカの爆撃目標から除外される理由の一つとなったそうだ。 倉敷に隣接する、岡山市や瀬戸内の町が次々と爆撃されるなか、 倉敷だけは、一度も爆撃を受けることはなかった。 その影には、 大原孫三郎の見えない努力があった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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