形而上学を考える
皆さんお久しぶりです。楽天から、あなたの日記を待ってますメールが来たものの殺人的忙しさから逃れられません。働らけど働らけど年貢を水増しされて、いつまでたっても暮らしが楽にならない小作農のことを時々ぼんやり思ったりなんかして。ダンス・ダンス・ダンスの中で、主人公の僕が自分の仕事について「文化的雪かき」と言っていたけれど私の仕事は「文化的大掃除」ってカンジだな。と、言い訳&愚痴はここまで。最近、疲れているのに随分夢を見る。前に夢の内容をこの日記で書いたことがあるけれど、私の夢って断片的でわけのわかんないまま終了ってことが殆どなく、きちんとしたストーリーになっていることが多い。キャストがロマンチックなメンバーで、内容もほろりとくる夢を見たりすると、起きるのがもったいなくなるし、どう考えても、ここで起きておかないと殺されるって内容の夢だと、しばらく眠るのが恐くなる。に、しても、リアルな夢ばかり見ていると、どっちが現実であってもおかしくないというか、夢が現実であるということもありえることなのだと私は考えてしまう。形而上的なものの考え方をすると、思推のみの世界で生きることができる。形而上学っていうのはいかなるものか?て言われると、うまくわからないので、なんとなくそういうものかな?って思うけれど、形而上的な世界観を味わいたいなら、カフカを読んで見てください。アリストテレスって人は、紀元前に形而上学をひとつの学問として成立させちゃったんだから凄いなって思う。経験による認識ではなく、思推によってのみ成立する考え方。存在について、ひとつの局面で語る科学とは違い、存在そのものについて考える学問。なんだかさっぱりわかりませんよね。ああ、テーマ失敗しちゃったかな。どうやら上手くまとまりません。ちなみに形而上学の反対語は形而下学。私たちが学校で学んできたいわゆるお勉強は全て形而下学です。あっと神学は特殊形而上学になりますが…