テーマ:短歌を詠む・読む(60)
カテゴリ:短歌
昨日(2月17日)は第三土曜日。
第三土曜日といえば旧月歌会。 というわけで、如月歌会に参加。 (注:旧月歌会は、毎月呼称が変わる。2月は如月歌会) 先月、歌まで出していたのに、前日東京で朝まで飲みを敢行してしまった結果、当然のことながら(?)欠席してしまった。 (余談だが、私とそっくりの行動をとりながら、ちゃんと参加した人が何人もいたというのは驚きである) なので、そのリベンジの意味も込めて、レッツら号! 参加者が28人と、最近の旧月にしてはやや少なめ。 2月で、雨で、という悪条件もあったかもしれない。 でも、おかげで、1首あたりの時間が割とゆっくりとれたのはよかったことだ。 司会のHさんも、2回目なのに、とても進め方やバランスの取り方がうまい。 段取りよく、かっきり5時に終了。 私は、言いたいことの6割くらいは言えたと思うので、まあ、満足。 (あれで6割かよ! というツッコミはなしで) それでも、あれはやや阿ってしまった、あれはダメ押ししすぎだった、あれはもっとはっきり言えばよかった、などと反省も多々。 偶数月なので、歌会のあとは飲み会。 (去年から、そういうことになっている) 密かに、これがとても楽しみだったりする。 3時の休憩時点で、Mさんが出欠確認したときには、5-6人しか手が挙がらず心配したが、その後Mさんの努力の甲斐もあってか(?)最終的には十人強参加してくれた。 ざっくばらんな話、真剣な歌の話で、盛り上がる。 2時間ちょっとの飲み会だったが、あっという間に終わる。 この時点でまだ8時過ぎだったので、当然(?)2次会へ。 大体いつものメンバーに。 あ、鳥取から参加のあらくれにほんかいさんもいた! 彼は鳥取県人なのに、飲み会の2回に1回はいるような感じがして、この場にいても、違和感は0。 最初5人だったけど、komimiさんと、korosukeさんが途中から合流してくれて、またかなり盛り上がる。 12時半ころ、あらくれにほんかいさんが「さすがにホテルにチェックインしないとまずい」と言い出して、とりあえず解散。 ちなみに、私はこの時点で、終電は行ってしまい、大阪には帰れなくなる。 夫が旅行に行っていて、自宅にいないのをいいことに、ちょっぴり羽目外し。 もちろん、Mさんが自宅に泊めてくださるということを事前に確認させていただいた上でのことだけど。 それでも飲み足りない(?)4人は、3次会に突入。 ますます短歌の話で盛り上がる。 見ようによっては、異様な集団。 Jさんが 「最近の旧月は、公式に当てはまった発言・批評をして、それで満足してしまっている人が多くて、不満だ」 と発言。 それをきっかけに、歌会での批評のあり方、塔らしい批評というのがあるのか? それは何か? その弊害は? あるべき批評とは? などといった話題で、相当盛り上がる。 Jさんの発言は、正直、耳が痛いところがある。 私など、(短歌人との合同歌会に出たことが2度ほどあるとはいえ)他結社の人と歌会をした経験はほとんどない。 なので、塔の歌会の批評=一般的な歌会の批評、と思ってしまっていた面が、多分にあったはず。 また、誰でもそうかも知れないが、批評は先輩の真似をするところから始まり、その域を突き抜けているとは到底思えない。 そして、私の場合、批評を学ぶ、いや真似ぶべき先輩とは、そのほとんどが塔の人なのだから。 だから、自分の感性や考えそのものから批評をしているというよりも、ある種の「公式」(いくつかある)に当てはめつつ批評しているという面は、ぬぐえないはずだ。 あわてて付け加えておくと、もちろん、やみくもに機械的に「公式」に当てはめているわけではなく、あくまで一度は自分の感性をくぐらせて自分の頭で考えた上で発言しているつもりだけど。 ただ、上に書いたこととやや重複するが、最初から独自性を持った、かつ多数に受け入れられる、いわゆる「完璧な批評」ができるわけがない。 最初は、歌会で先輩方が発言していることを消化しながら、それでも恐る恐る「真似ぶ」ところからスタートするのだと思う。 そしてまた、型にはまった「公式」的な批評を繰り返すことによって、その「型」を身に付けていく(自分のものにしていく)。 ここで大事なのは、必ず自分で発言することだと思う。 間違ってもいい、赤っ恥をかいてもいい、自分で発言することによってのみ、批評眼というのは磨かれていくのだと思う。 そうして、ある程度の期間(人によって異なる)それを繰り返して、「型」を自分のものにしたときに、やっと、それを少し崩してみたり、他の「型」も参考にして、いいと思ったところは取り入れていったりすることができるようになるのではないか。 それは、例えば、書道で、まずは基本の楷書をきっちりと身につける、それがあって初めて、行書や草書を会得することができる、というのに似ていると思う。 言い方を変えれば、最初からさまざまな型の「おいしいとこ取り」では、結局しっかりとした批評眼というのは、身につかないまま、中途半端に終わってしまうように思う。 確かに、塔での批評が、唯一絶対のものではない、他にもいろいろな「型」がある、ということを、少なくとも頭の片隅に置いておくことは重要であるし、忘れてはならないことだと思う。 しかし、その重要性も、ある程度一つの「型」が身についてこそ、実感できるものではないか、などと思ったりするのである。 かくいう私も、まだまだ「型」を身に付けるのに必死な段階である。 なので、とりあえずは、「型」の修練に主軸を置きたい。 しかし、今日の議論の中で、相対化という視点を持つことの重要性は、少し見えてきた気がする。 まだまだ、他の「型」を真似ぶような段階ではないけれど、少なくとも唯一絶対の批評などない、ということは、これから頭の隅に置いておこうと思う。 そしてそれは、とりもなおさず、自分の頭で必死に考えて、自分の言葉で必死に言う、ということにつながってくると思う。 歌の批評に、それ以上に大事なことなどないと思うから。 まるで、私一人で考えたように書いてしまったけど、以上は今回の(ミニ)議論の、とりあえずの到達点だ。 やっぱり、こういう議論が真剣に交わせる仲間がいるというのはいいなぁ、と思う(やや青臭い?) もちろん、それ以外の話もいっぱいした。 3時に店を追い出されたので、強制終了する。 ああ、充実していた。 その後は、お約束どおりM家に泊めていただき、お昼間、ようやっと大阪の自宅に帰ってきた。 朝帰り、ならぬ昼帰り。 何だか、えらく長くなってしまってすいません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年02月18日 15時13分14秒
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