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最近、ギリシャの経済学者、ヤニス・バルファキス氏の著作「父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。」(関美和訳、ダイヤモンド社、2019)という本を読む機会がありました。
亭主がバルファキス氏の名前を知ったのは、「欲望の資本主義」と題した某局のテレビ番組の中での短いインタヴュー映像ででした。そこで何が語られていたかは忘れてしまいましたが、彼はリーマンショック(2008年)に続いてギリシャで始まった国家財政の危機の中で、短期間ではあるものの同国の財務大臣を務めたことがあり、その際の経験をもとにした話だったと記憶します。その後、巷で前述の著作が話題になっていることを知り、目を通してみることに。
同書では、まずイントロで市場経済と資本主義を明確に区別し、資本主義が生産における「余剰」(生活に必要な分を越えた生産物)から始まったこと、そのように余ったものを市場で売買するためについたのが値段(=交換価値)であること、さらに余剰(=儲け)を最大化させたいという欲望がが資本主義の本質であることなどが分かりやすく解説されています。
このような内容は、あまたある経済学の入門書などでもある程度カバーされていますが、小難しい専門用語や数式を一切使わず、身近な経済的活動の例を引きながら主張の核心を読者に分からせる手腕には唸らされます。(例えば、資本主義の本質を単刀直入に「余剰」と言い切ってしまうところ。これには亭主も目からウロコの思いをしました。)
ところで、同書を読み進むうちに、交換価値と対立する価値として登場するのが「経験価値」。これも、以前から誰もが漠然と感じていた「…でもお金で買えないものもあるよね」という別の価値に明確な定義・表現を与えてくれる、という点で、思考を前進させる強力な言葉です。
この二項対立概念を分かりやすく解説した部分を、本の刊行元であるダイヤモンド社がWebページで公開してくれているので、そこから以下に抜粋で引用します。心が満たされることの価値
…その晩、友人夫婦とその幼い息子のパリスを誘って、マラソナス・ビーチにあるお気に入りのレストランまでボートで向かった。食べ物を注文していると、パリスがみんなを笑わせはじめた。パリスはノリノリではしゃぎ、私たちを大いに笑わせてくれた。いつもはむっつりしている友人もつい笑ってしまうほど、楽しい晩だった。
食べ物がくる前に、コスタス船長が、頼みがあると言いにきた。
コスタス船長は、レストランの裏にある船着き場の私たちのボートの横に、自分の漁船を停めていた。船の錨が海底の岩に挟まってしまい、引き上げようとしたら鎖が切れてしまったという。
「お願いできませんかね? 先生、ダイビングがお好きでしょう? ひとつ潜って、この縄を錨の鎖に結んでもらえませんか? できれば自分でやりたいところなんですが、今日は持病のリューマチが痛んじゃって」そう頼まれた。
「いいよ」人助けのチャンスだと思って、喜んで海に飛び込んだ。
夏の夕暮れ。私をうっとうしく思っている君。はしゃぎ回るパリス。コスタス船長の頼みで、海に飛び込むのは楽しかった。素敵な夏のひと時だ。心が満たされる。嫌なことも忘れてしまった。たとえば、友だちが傷ついたり、退屈な宿題をしなくちゃならなかったり、孤独を感じたり、将来に不安を持ったり、そんなときとは正反対の気分になった。
こんなふうに心が満たされるのは、「いいこと(グッド)」だ。しかし、経済学でも「グッズ」という言葉を使う。店の棚に並んでいる品物や、アマゾンで売っているものや、テレビでしょっちゅう宣伝しているものも「グッズ」と呼ばれる。同じ言葉だが、意味はまったく違う。後者はむしろ「商品(コモディティ)」と呼ぶべきものだ。では、「グッズ」と「商品」はどう違うんだろう?
「高ければ高いほど売りたくなる」わけではない
エギナ島の夕暮れ。パリスがはしゃぎ、私は海に飛び込む。そんな経験はおカネでは買えない。一方、「商品」は売るためにつくられたものだ。
君が気づいているかどうかわからないが、グッズについてほとんどの人は勘違いしている。値段が高いほうがいいものだと思っている人は多い。しかも、支払ってもらえる金額が多ければ多いほど、人はそれを売りたくなるはずだと思い込んでいる人も多い。
だが、そうではない。
…
コスタス船長の一件を考えてみよう。もし、おカネを払うから海に潜ってくれと頼まれていたら、喜んで潜っただろうか? 海に飛び込むことを楽しめただろうか?
おカネを払うと言われたら、人助けの喜びや冒険のワクワク感がなくなってしまう。ちょっとばかりおカネをもらっても、失われたワクワク感の埋め合わせにはならない。
すべてを「値段」で測る人たち
パリスが将来プロのコメディアンになったり、私がプロのダイバーだったら話は別だ。パリスのお笑いも私のダイビングも「商品」になる。
商品とは、いくらかの金額で「売る」ものだ。それが商品であるなら、お笑いにもダイビングにも市場価格がつく。市場価格とは「交換価値」を反映したものだ。つまり、市場で何かを交換するときの価値を示しているのが市場価格だ。
だが、売り物でない場合、お笑いにもダイビングにも、まったく別の種類の価値がある。「経験価値」と呼んでもいい。海に飛び込み、夕日を眺め、笑い合う。どれも経験として大きな価値がある。そんな経験はほかの何ものにも代えられない。
経験価値と交換価値は、対極にある。それなのに、いまどきはどんなものも「商品」だと思われているし、すべてのものに値段がつくと思われている。世の中のすべてのものが交換価値で測れると思われているのだ。
値段のつかないものや、売り物でないものは価値がないと思われ、逆に値段のつくものは人の欲しがるものだとされる。
だがそれは勘違いだ。いい例が血液市場だろう。多くの国では、人々は無償で献血している。誰かの命を救いたいという善意から、献血するのだ。では、献血におカネを支払ったらどうなる?
答えはもうわかるだろう。献血が有償の国では、無償の国よりもはるかに血液が集まりにくい。おカネにつられる献血者は少なく、逆におカネを支払うと善意の献血者はあまり来なくなる。
…
でもここで、コスタス船長の一件を思い出すと、わかりやすくなる。夜の海に飛び込んでくれと船長に頼まれて、私は彼を助けたいという気持ちから、面倒だったが服を脱ぎ、暗くて冷たい海に飛び込んだ。もし「5ユーロ出すから海に飛び込んでくれ」と頼まれていたら、やらなかっただろう。
献血も同じだ。献血者は人助けと思って献血する。だがそれに値段がつくと、人助けでなく商売になってしまう。ちょっとばかりおカネをもらっても、気持ちの埋め合わせにはならない。もちろん、時間もかかるし注射針は痛い。
… さて、バルファキス氏が語る「経験価値」と「交換価値」、ここで挙げられたいくつかの例は実に分かりやすく2つの概念を解き明かしているように見えます。
が、これを目下の関心事である音楽に当てはめて考えはじめたところ、亭主はハタと分からなくなってきました。というのも、人が音楽を聴いて感動するのは確かに「経験価値」、CDを再生した場合ですら聴く側が2度と同じ自分ではない(TPOも違えば感じ方も変わる)という点では一期一会の(交換不可能な)経験です。
一方で、コンサートのチケットやCDには値段がついているのも紛れもない事実。一見、音楽経験があたかも「交換可能な価値」として売り買いされているようにも見えます。ウィーン国立歌劇場のオペラ公演はS席5万円で、無名のピアニストの自由席は2000円だとすると、これらの「交換価値」はいったい何を意味するのか。ある程度それぞれの「人気(=需要)」を反映しているとしても、ではその人気の元になっているのは「経験価値」ではないのか。すぐには答えが見つからない感じです。
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Last updated
March 6, 2022 08:19:19 PM
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