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「沈黙」あるいは「静寂」がテーマだというジャン・ロンドーによるゴルトベルク変奏曲。それが本当のところ何を意味しているのかについてあれこれ詮索していたところ、なんとロンドー自身が詳しく語っているインタビュー記事に遭遇。「ぶらあぼ」という音楽雑誌のウェブサイト上に3月19日付で掲載されている「柴田俊幸のCROSS TALK 〜古楽とその先と〜Vol.5 ジャン・ロンドー in パリ[後編]」(こちら)です。この記事、前編も含めて大変面白い内容ですが、話題は多岐に渡っており、なかなかの長文で読み通すのはそれなりに大変。そこで、表題に関わる部分について亭主の方で勝手に要約版を作ってみましたので、以下にアップします。...チェンバロは撥弦楽器なので、フルートやヴァイオリンのように音形を作ることのできる楽器とは違い、 打鍵と解放しかできない。しかしながら、音と音のあいだで「歌う」ことは(難しいが)不可能ではない。そもそも、歌わせることができない楽器は「楽器」として成り立たない。
「チェンバロは表現力がない、ダイナミクスがない」などという声をよく耳にするが、それは間違っている。 それはダイナミクスがないように弾いているからである。実際は音の強弱を作り出すことは可能であり、楽器に欠陥があるわけでもない。
多くの偉大な作曲家が、チェンバロのために素晴らしい曲を書いてきた。音楽的に考えてもチェンバロでしか表現できないからだ。この楽器で音楽を表現するためにはそのための技術が必要で、それを会得するための正しい筋道、つまり教育が必要なのである。それを理解した上で初めて、どうやってこの楽器を使って歌わせることができるかを考え始めなければならない。
チェンバロは打鍵と解放という動作があって、その間には何もないという言明は、正しくもあり、間違いでもある。正しいと信じている者は、音の始まりと終わり以外を全く意識していないのだ。チェンバロで音楽を歌わせるには、打鍵と解放のあいだの時間も常に音を聴き続けることが重要なのである。
例えば、我々が話をする時には子音、母音、音節などのアーティキュレーションだけに注意するわけではない。これらは話の勢いや表現を生み出すが、意味が通じなければ単なる末節である。言葉と言葉のあいだの沈黙、合図や抑揚さえもが重要である。チェンバロでいうところの打鍵と解放の間にあるものは、もっと複雑だ。そこへの意識・集中力が欠けてはならない。言葉のあいだにある沈黙には、言葉と同じぐらいの質量が存在しているのだ。
ダイナミクスの話は至って単純である。就寝中の夜の沈黙があるからこそ、翌朝音はより強く感じられる。ナイトクラブに行けばその逆だ。音と音のあいだの静寂をどう処理するかが、ダイナミクスを生み出すのだ。静寂の処理というのはとても微妙なものであることを、我々チェンバロ奏者は受け入れなければならない。沈黙に耳を傾けるのだ。フルートのように音形を制御できないなら、それぞれの音をどこに置くかを考えなければならない。これは発音という物理的問題だけでなく、音を出した後の「響き」の問題なのである。
私にとって、聴くということは終わりのない作業である。チェンバロでは音形がつくれないからこそ、別のやり方で音楽を表現することができる。その実現のために、より一層、聴くことに没頭しなければならないのだ。
たとえば、バッハの3声のフーガを取り上げるとしよう。まず何も考えずに一回弾く。今度は同じように弾くのだが、ある声部を聴きながら(注目しながら)弾くと、聴衆にもその声部が聞こえてくるようになる。これは実際にマスタークラスで経験したことである。
私がマスタークラスで教える時、生徒は音の響きを聴いていないことが多い。学生はいつも打鍵ばかりに注意がいってしまう。彼らにとって一番大事なのは、そこにある鍵盤を押すことなのだ。鍵盤を押すたびに、次の鍵盤を押すことを考えている。だが、これは私にとっては瑣末なことに過ぎない。音と音の間にもっとエネルギーを使うべきなのだ。自分自身をより「今」に近いところに置くのである。
聴衆は今この瞬間しか聴いていない。あるいは少し前の過去に浸っているかもしれない。演奏者は何度も勉強して目の前の作品を知っているから、未来を予測することができるが、聴衆はそうではない。未来を予測するのではなく、今この瞬間にいること、今この瞬間と同化することが必要なのだ。そして、今を受け身ではなく能動的に聴くのである。チェンバロで表現するための訓練の原点を理解することは、どこに耳を傾け、どこにエネルギーを注ぎ、どう今に対峙するかということである。 これを読めば、ハープシコードという楽器やそれによる音楽表現について、ロンドーが長い間熟考を重ね、この楽器固有の音楽美学を確立してきたことがよくわかります。ゴルトベルク変奏曲の演奏は、そのような彼の美学の実践の場だったということでしょう。
ところで、亭主はこのいわば「マニフェスト」を読みながら、カークパトリックの著作「ドメニコ・スカルラッティ」の中にも同じような趣旨の記述があったことを思い出しました。以下はその部分からの引用です。ここでしばらく、書かれている通りに読まれるべき旋律線、つまりあたかも声によってあらゆる音符がその詳細にわたって演奏されるよう期待されているような旋律線について考えてみよう。ひとつの旋律線を鍵盤楽器上で表現豊かに展開する上で欠くことのできない性質は、必ずしも音符それぞれのボタンを押すかのように正確かつ自動的に各音の鍵盤を押し下げることでもなければ、その過程で好みの音を実現することでもない。旋律線を生きたものにするのは、理想的には声が旋律線と折り合いをつけ歌いこなすやり方、またそのように歌いこなしている感覚を想像上で模倣あるいは暗示することである。そこにこそ旋律の身体的な表現力があるのだ。問題は、単に正しいテンポとピッチで音の出るボタンを押すのではなく、文字通り如何にある音から次の音へと到達するかであり、言い換えれば、いかに声による表情のような音程にするかである.
鍵盤楽器の上では、手の跳躍や移動、あるいは指の異常な拡大や組み合わせの要求を除き、すべての音程は同じように感じられる.しかし、声にとって順次的な動きと跳躍する動きとは決して同じようには感じられない。それぞれの音程が演奏に際してどう感じるかによって相互に異なる性格を帯びる。4度は2度とは決して同じように感じられないだろうし、5度と6度も同様である。上行は下行と同じではない。旋律の流れを変える音の輪郭は,そうでない音とは異なった感覚を引き起こす。旋律に含まれる音程の表現上の本質は,音そのものの中にあるのではなく、音と音の合間、ある音から次の音へと移り行く方法にあるのだ.音楽的価値が音そのものの中にあり、音から音への推移にはないと仮定することは鍵盤奏者がまず第一に持つ誤った考えである。これが声楽教育にも広がったことが、今日よく聞かれる非音楽的で調子に乗らない歌唱のほとんどの原因である。もしピアノが適切に使われていたなら、元来そのような壊滅的な影響を声楽家にまで及ぼすといった音楽上の理由はなかったであろう。
「君が演奏するものすべてをよく聞き、歌いたまえ。指を機械仕掛けの小さなハンマーとしてではなく、君の声帯の拡張として使うのだ」。この単純な教えを把握しようと一度でも努力した弟子達からは、細かい議論や理論的説明なしでも常に鋭敏で表現豊かな声楽的デクラメーションを引き出すことに成功してきた。一度この教えに従えば、ハープシコード、ピアノあるいはオルガンにせよ、時に楽器というよりは機械に見える無骨で比較的鈍感な鍵盤上の各音程は、それが築き上げるのを助けている楽句との関係において各々が特徴ある色彩と独特の価値を獲得するのである。
(ラルフ・カークパトリック、「ドメニコ・スカルラッティ」、音楽之友社、pp.319-320) 思い起こせば、亭主も40年以上前の若かりし頃、音楽サークルの先輩から「もっと自分の演奏をよく聴いたほうがよい」と言われたことが鮮明な記憶として蘇ってきます。ロンドーやカークパトリックの教えに接し、亭主も自らの演奏を「よく聴く」努力を怠らないよう、自戒を新たにしました。
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Last updated
April 3, 2022 08:40:19 PM
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