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カテゴリ:音楽
クラシック音楽の業界では知らない人はいないだろう音楽評論家、吉田秀和翁が2012年5月に亡くなってから早10年だそうです。これを機に、以前に彼の評論記事「音楽展望」を掲載していたA新聞でも追悼記事が連載され、吉田翁の生涯を駆け足で辿りながら、彼の批評に対する考え方・さらには生き様のようなものについて、ときにその片言隻句を引用しながら紹介されていました。
その内容、基本的には彼の功績を礼賛するもので、名文家・名批評家として、また「子供のための音楽教室」開設から始まって、水戸芸術館の館長としてなどのさまざまな活動を通じての業界への貢献に光が当てられていました。 亭主も吉田翁の大ファンであることは隠れもなく、その証拠に書棚を見れば、昔日の読書の跡である彼の著作が結構な数並んでいます。彼の第一評論集「主題と変奏」は学生時代の亭主にとって座右の書でしたし、新聞で月に1度の「音楽展望」を読むのが大きな楽しみだったことも懐かしく思い出されます。 一方で、今回の連載も含め、吉田翁を取り巻く業界人たちの様子を眺めていると、亭主から見てその度を越しているのではと思われるような崇敬の念を帯びた態度や言葉が並び、何か宗教じみた異様さを感じて違和感を覚えました。実際、彼の生前においても吉田翁の評論・評価は(本人の意図にかかわらず)業界内に大きな影響力を持ち、誰もが彼に(できればポジティブに)評価されたいと思い、あるいはその言行・一挙手一投足に気を揉んでいた風があります。 そのような立場にあった吉田翁であれば、それに対して光の部分だけではなく影の部分もあったのではないか、と亭主は勝手に想像しているところですが、今のところそのような記事にお目にかかったとはありません。生前ならともかく、亡くなってから10年経っても関係者(特にジャーナリスト)がその全体を総括できていないとすれば、「やせ細り閉塞したクラシック音楽」(2004年、吉田翁がカルロス・クライバーにこと寄せて語った言葉)には、もうそのような余裕もなくなっている、ということなのかもしれません。 そこで、亭主はお気楽な市井人として、2つばかり吉田翁について気になることをメモしておきます。その一つは「子供のための音楽教室」の実態についてです。1948年創設のこの教室、講師陣には吉田本人も含め、齋藤秀雄、井口基成、柴田南雄といった気鋭の音楽家たちが揃うなど、ある種理想的な音楽教育が行われていたように亭主も想像していましたが、生徒の一人であるピアニスト・中村紘子さんのインタビュー記事(2013年にA新聞で連載)を読むと、ピアノでは井口愛子氏による体育会系のスパルタ式レッスンが行われていたことが知れます。以下、ネットで見つけた別のインタビュー記事から: “あの頃、怖い事では日本一いや世界一と言われた井口愛子先生のレッスンを週1回受けていましてネ。もう毎日が地獄でしたヨ。毎日5~6時間家で練習でしょ。(レッスンが水曜か木曜)金曜土曜は幸せ、青空なの…日曜ぐらいから曇りはじめて、月曜は雨雲、火曜日はどしゃぶり、火曜の夜から発熱、レッスンの日はだいたい熱だしてました。(井口先生の雷鳴が轟く)こちらが30過ぎても時々夢を見るんですヨ!(笑)”想像するに、これはメカニック中心、言ってみればピアノ演奏を鍵盤上の指のサーカスとみなす指導で、今日から見ればお世辞にも芸術教育とは言えないやり方に見えます。吉田翁は当時「教室長」という立場にあったはずで、これを是としていたということであれば「それってどうなの?」です。 もう一つ、これは吉田翁の音楽批評についてのもの。もうだいぶ古くなりましたが、亭主が敬愛する文芸評論家・斉藤美奈子さんの「読者は踊る」(文春文庫、2001年)という本の中で、彼女の筆刀にバッサリ切られているのが彼の批評です。 同書は彼女の雑誌コラムを集めて出版した本で、件の批評はその中にある「文化遺産のなれのはて」という章の冒頭、「◆マニアなのかマヌケなのか。クラシック音楽批評の怪」という一節で取り上げられています。冒頭、 「クラシック音楽評論をまとめ読みした。たまたま手にした何冊かがおもしろかったからだが、10冊余り飛ばし読みしたところで、開いた口がふさがらなくなってきた。なんだこれ、つまんねえ本ばっかだな……。この感じは何かに似ているぞと考えていて思いあたったのがアニメなんかの評論である。陳腐で空疎で稚拙な賛辞。自閉症的な雰囲気・『オレだけが知っている』とでもいいたげな重箱の隅的知識のひけらかし。ただし、アニメ界と音楽界にはひとつ大きな違いがある。サブカルチャーとメインカルチャーの差だろうか。」とはじまり、舌鋒鋭く関連書を次々になで斬りにしていきます。その3番手として登場したのが吉田翁。以下引用すると、 3長老ファンのCD評とあります。(欄外には、「『この一枚』吉田秀和、新潮文庫、1992年*音楽批評界の大御所によるCD時評。思いのほかナイーブな文章に愕然とする。」とのコメント。)吉田翁は、自身がときにこのような凡庸な言語表現に陥ることを自覚していたのだろうか、あるいは身近にそれを指摘してくれるような友人はいなかったのだろうか、というギモンが湧いてきます。(彼は相撲好きでも知られており、音楽を「語る」試みのひとつとして相撲の実況中継のようなことをやってみたという噂もあるようですが、まあこれは失敗というべきでしょう。) この後では、逆に彼女を感心させた批評も紹介されており、野中映『名曲偏愛学』、玉木正之『クラシック道場入門』、さらには若手オタク軍団によるシニカルなCD評『クラシックの聴き方が変わる本』などが登場。最後の評を紹介した後で、 ちなみに、さっきの吉田秀和評に出てきたレヴァインも、彼らの手にかかれば<これが盛り上がるところ、ここが静かなところ、と勧善懲悪ドラマ的に割り切>る単純素朴な指揮者であり、ブレンデルは<音楽誌の推薦のお墨付き>の<聖今上陛下派>ピアニストだ、ってなぐあいで、すっかりかたなし。だそうです。どうでしょう、少しは「デバンキング」になったでしょうか? さて、いつものように天邪鬼をやらかしたところで、最後に吉田翁自身による「伝説の」ホロヴィッツ演奏評を引用し、(身の程知らずの)亭主の言い訳とさせて頂きます。 「こんなことを書くのが、遠来の老大家に対し、どんなに非礼で情け知らずの仕打ちか、私も心得てないわけではない。だが、大家に向かって、いまさら外交辞令でもあるまい。」 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 12, 2022 06:18:16 PM
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