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カテゴリ:音楽
亭主が住む関東地方は、昨日あたりから急に真夏のような猛暑が始まりました。梅雨前線は太平洋高気圧からの強い南風に雲霧消散したらしく、予報でもこの状態はまだ1週間ほど続くとのことなので、まさに「梅雨明け十日」の猛暑そのもの。というわけで、(まだ6月ですが)亭主の見立てはもう梅雨明け(夏が来た!)です。
さて、あまりの暑さに庭仕事はおろか、楽器をいじるのもメンドーになった亭主、ソファに延びてブルース・ヘインズ先生の「古楽の終焉」(6月初めの本ブログでご紹介)をパラパラとめくっていたところ、「正典主義」というキーワードに遭遇しました。この言葉、当初亭主は自分がクラシック音楽を念頭に時々使っているお手本主義(クラシシスム、古典主義)と同じような意味だろう、とタカを括っていたのですが、本を読み進むと微妙に違うところも見えてきました。そこで、少し考えたことを暑さ凌ぎのおサボりの口実にメモっておくことに。 まず、古典主義について。これは芸術に関する普遍的な概念ですが、基本的には文学(テキスト)や美術(絵画・彫刻)といった「形のあるもの」についての概念です。これらの「作品」は、人類数千年の歴史的な遺産として(一部でああるものの)残っているので、時間を超えての比較が可能です。また、そうやって歴史の風雪に耐えて残ったものは、「優れたもの」と感じられる(なぜなら大切にされたから今日まで伝わった)わけで、このような「古いもの」への自然な畏敬の念が古典主義の根底にあると思われます。 つまり、古典主義とはそのような「形ある古いもの」を、「優れたもの」としてお手本にしよう、という考え方です。 では、この概念は音楽にも当てはまるでしょうか? 亭主がこの言葉を使う際に漠然と考えていたことは、クラシック音楽界でいうところの「大作曲家」の作品群についてのもので、19世紀終わりごろから現れた演奏を専業とする音楽家(クラシック演奏家)が「レパートリー」と呼ぶものに対応します。(とはいえ、よく考えると演奏家は作品をお手本にして作曲しているわけではないので、むしろこれら昔の作品を「優れたもの」として崇拝している、というだけのことでした。) ところが、本書の中で紹介されているチャールス・バーニーの著作や、それらから引用された彼の言葉を読んでいるうちにハっとしたことには、そもそも音楽の実態は「音」であり、それら昔日に鳴り響いた音は文学や美術のような意味では残っていないので、比較参照のしようがありません。 こう書くと、「いやいや、テキストとして楽譜は残っているじゃん?」と言われそうですが、楽譜それ自体が音楽でないことは明らか。その事情は、生物の遺伝子をコードしたDNAが、生物そのものでないことと同じです。つまり、音楽の世界では「古典主義」は(少なくとも蓄音機以前は)成り立たない概念になります。(音楽そのものの歴史という観点からは、エジソンによる蓄音機の発明の持つ意味がいかに大きいかが見て取れます。) 実際、「音は残らない」という音楽の性質は決定的で、バーニー以前に「音楽の歴史」というものを考えた人がいた形跡はなく、ゼロからの出発を余儀なくされた彼の「音楽史」の企ては、資料を集めるための2度のヨーロッパ大旅行から始まった、というわけです。ここで「資料」の中身は、各地で奏でられている音楽を彼自身の耳で聴き、あるいは音楽家に会って直接話を聞くことでした。(楽譜や書籍など「形あるもの」の収集も行なっていますが、それが主ではない点が重要。) では、正典主義とはなにか。まず「正典」という言葉はもともと宗教用語で、国語辞典によれば「教団・教会によって公に認められ,信仰・教義・生活に規範を与える書物。カノン。」とあります。クラシック音楽のレパートリー(=大作曲家の作品)も、業界でそうと認められ、音楽教育や演奏活動に規範を与える、という意味で、この正典という言葉がピタリとはまります。 ここで「正典」が宗教用語であることは、単なる偶然ではないことも暗示されています。クラシック音楽界にとって、大作曲家とはさながらキリスト教における聖人のようなもの。その肖像が掲げられている音楽院は教会、そして音楽教師は司祭あるいは牧師に例えられるのかもしれません。他ジャンルの音楽と異なり、クラシック音楽の演奏会が妙に儀式張り、神妙に「音楽鑑賞」を行う様も、それが正典に対する礼拝のようなものだと思えばすんなり納得が行きます。(調子に乗ってもっと言えば、指揮者も含め、クラシック音楽の演奏家はクラシック音楽の宣教師かも?) このような考え方は、どの作品が正典であることを取り決めるための権威主義、さらには「正典」以外の音楽に対する蔑視(階級意識やエリート主義)へと導きます。 ヘインズ先生によれば、このような音楽観の変化は19世紀ロマン派によるもので、大作曲家を英雄視すると同時に、彼らが残した音楽テキスト、さらには「人物像」を伝えるエピソード(キリスト教における黄金伝説?)の収集などが行われるようになったようです。 ちなみに、この文脈で前々回の吉田秀和翁とその音楽評論を捉え直せば、彼やその評論に対するクラシック音楽界人の態度を「宗教がかって気持ち悪い」と亭主が感じた原因もまさにこれ。吉田秀和翁をいわばクラシック音楽教の殉教者として「列聖」し、崇めるが如き業界人の態度にあったというわけです。 つらつら思うに、亭主がクラシック音楽界に対して長年感じている閉塞感のようなものの起源もこの辺にあるのかも? いzれにせよ、亭主もクラシック音楽を語るキーワードとして、今後はこの正典主義という言葉を援用させていただこうと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 26, 2022 08:49:30 PM
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