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カテゴリ:音楽
先月から読み始めたB. ヘインズの「古楽の終焉」をようやくこの週末に読了。実に面白い内容で、HIP(歴史的知識に基づく演奏)のことだけでなく、音楽全体についてもいろいろと考えさせられました。最後の方で特に刺激的だったのが、第12章「受動的と能動的なミュージッキング—見ていないで自分を育め」で提起された「スタイルの模倣」に基づく新作の作曲についてです。
スタイルの模倣と聞いて亭主がまず思い浮かべるのが絵画の世界。一昨年の某局のテレビ番組でも詳しく取り上げられていまいしたが、20世紀前半にフェルメールの贋作を描いたハン・ファン・メーヘレンという画家の話はよく知られていると思います。自分の写実的スタイルが当時の美術界に評価されず、画家として不遇を囲っていたメーヘレンは、フェルメール作品のスタイルを巧みに模倣した絵を何枚も描き、専門の美術史家や画商をまんまと騙してそれらを「フェルメール作」と認めさせ、高値で売却することに成功します。当初は、騙した後で作者が自分であることをバラして美術界に一泡吹かせてやろうという魂胆だったようで、コトが露見した際には当然のように非難されます。一方で、偶然にも彼の贋作をナチスの高官ゲーリングが手に入れていたことから、そのことでは「ナチスを欺いた英雄」という扱いも受けることに。 メーヘレンによるフェルメール贋作「エマオの晩餐」(ウィキペデイアより引用) とはいえ、この事件の核心は、「贋作」という倫理上の問題を超えてもっと深いところにあります。なぜなら、このようなスタイルの模倣は、「作品の価値・評価は何で決まるのか」という芸術論・美学上最も重要で機微に触れる問題のひとつ、「作品の帰属」という問題に関わっているからです。メーヘレンが描いた「エマオの晩餐」、フェルメール作とされた間は一般人のみならず専門家までもが傑作として礼賛していましたが、真の作者が露見するや評価はがらりと変わりました。絵そのものは、ことが露見する前後で何も変わっていないのに、です。 ここで重要なポイントのひとつは、贋作といっても既存作のコピー(模造品)ではなく、スタイル(様式)を真似た創作(新作)であることです。 最近では、AI(人工知能)にレンブラントの絵画作品を「学習」させて、もし彼が生きていればこのような新作を描いただろう、といった絵を「創作」して見せてくれた例もあります。人が行えば贋作として貶められる一方で、AIがやっている限りはスタイルの模倣として感心される、という矛盾した状況のようにも見えます。(後者については、音楽でも既にその試みがなされており、一昨年にこのブログでもご紹介しました。) ヘインズ先生の著書に戻ると、第12章の冒頭は以下のように始まります。 古楽アンサンブル、レッド・プリーストのピアーズ・アダムスは熟考する。バロックの傑作をすべていちど演奏し、録音してしまったら、私たちは何をするだろう。そのとき、「そこできっぱりやめ、休んで自己満足に浸るだろうか。音楽が生きた芸術でありつづけるなら、演奏家は編曲者=共同作曲者であるという考えをよみがえらせるべきだ」。… つまり「新たに曲を書くことによって得られる自由が、私たちにもあってもよい」というわけです。 一方で、ヘインズ先生はすぐに続けて「しかし私たちに染みついた正典主義的な考え方を克服するのは、奇跡に近いだろう。その考え方が、同じ楽曲をカヴァー・バンドのように何度も繰り返し演奏するように縛るのだ」と現状を悲観的に総括します。 演奏専業の音楽家が、(19世紀以降の)大作曲家の作品を「正典」として繰り返し演奏するのはクラシック音楽界での決まりごとですが、古楽アンサンブルといえども今のところ事情は大差なく、バロック以前の「既存作品」のみの演奏に縛られているように見えます。(それどころか演奏会のスタイルも、何から何までクラシック音楽のそれと同じ。実際問題としてクラシック音楽界が確立したシステム/ビジネスモデルに乗っかってやらざるを得ないからか?) とはいえ(現状はかくのごとく悲観的だが)、将来的にはそのような縛りから解放されるべきではないのか。つまり、バロックのスタイルに則った新作を披露するのがHIPのとるべき道なのではないか。これがこの章のタイトルの意味するところのようです。 ここで問題になるのが「私たちに染みついた正典主義的な考え方」で、これが働く限り「スタイルの模倣による創作」をオリジナルな新作と認め難いと感じてしまいます。例えば、ヴィヴァルディのスタイルを模倣した新作は、いってみればヴィヴァルディの「パロディ」のように感じられてしまうわけです。(これは、我々が陥っているロマン派的な「天才信仰」の表れでもあり、スタイルの模倣がヴィヴァルディという天才のサル真似をしている、という倫理的な問題にすり替わってしまう、というわけです。これは前述の「帰属問題」にも通じます。) とはいえ、ヴィヴァルディといえども元をだどればコレッリのスタイルに行き着きます。ヘインズ先生の言い方を借りれば、「同時代の音楽家は皆同じ『回転木馬』に乗っていて降りられない」、だから似たような「訛り(スタイル)」で話し続けるのは道理、ということになります。 面白いことに、古楽界ではこのようなスタイルの模倣を試みている音楽家が既に何人もいるようで、ヘインズ先生の本の中ではヴィンフリート。ミシェル、マティアス・マウト、さらにヘンドリック・バウマンといった作曲家が紹介されています。(残念ながら音源を見つけ出すまでには至らず。) AIによる特定の作曲家のスタイルを真似た創作は既に試みられていますが、もっと広く同時代の複数の音楽家に共通するスタイルを学習させてどんな音楽が繰り出されてくるのか、ことによると全く新しい音楽が出現するかもしれない、という点でさらに面白そうです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 24, 2022 10:11:30 PM
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