|
カテゴリ:音楽
今週末、亭主の住むつくば界隈はひと月ぶりに36度を超える猛暑がぶり返しています。庭の芝刈りを始めた朝9時には既に32度越え。電動芝刈り機を押して回るだけの作業にも関わらず、30分もしないうちに汗だくになり、終わり頃には意識もモーローとなり始めたので慌てて撤収。
さて、その後はあまりの暑さに何もする気にならないまま、冷房に浸かってボーっとリビングのソファに座っていると、ふと目の前のテーブルの上に積ん読状態で置いてある表題の書が目に入りました。 原書は、18世紀後半に活躍した英国の音楽史家・チャールス・バーニーが同時代のヨーロッパ音楽事情を伝えた貴重な文献として大変有名ですが、「翻訳大国」の日本で何故か邦訳がない、という状態が長く続いていました。その邦訳(今井民子・森田義之氏らの共訳)がついに昨年、春秋社より刊行されたのを最近になって知り、購入したもの。 元々、原書は「フランス・イタリア篇」と「ドイツ篇」二巻からなっており、実は後者(小宮正安訳)が先行して一昨年(2020年)に同じ出版社から刊行されていましたが、やはり何といっても面白いのは昨年に出た「フランス・イタリア篇」の方です。 亭主が原書(1771年初版のファクシミリ版、2008年刊行)を手にしたのは10年以上前で、当時このブログでもその内容を少し紹介したことがあります(こちら)。というのも、バーニー氏は当時まだ存命だったかの不世出のカストラート、ファリネッリとボローニャで面会し、スペインの宮廷で長く同僚だったドメニコ・スカルラッティの消息やエピソードについて聞き取りを行っており、亭主を含めドメニコに興味を持つ読者にとっては「同時代の証言」として実に貴重な文献だからです。(これは、一つにはバーニー自身がスカルラッティ・フリークだったからでもあり、当時の英国でスカルラッティの人気が如何に高かったかを物語っているとも言えます。) 興味深いことに、英語という言語は(少なくとも書き言葉としては)18世紀当時と現在とで大きく変化していないようで、バーニーの著作も現代の書物とほとんど変わりなく「読める」のに驚いた覚えがあります。(明治期の「言文一致」運動を経た現代の日本語と江戸時代以前のそれが、全く別の言語に見えるのとは大違いで、文化の継承・発展という点で日本語は大いに不利だと感じられます。) さて、件の邦訳、もちろん原書にはない訳注、参考文献リスト、索引や解説が加えられた充実の内容で、その分遥かに分厚くなっています。例によって後ろの解説記事から読み始め、その後本文を眺めようと真ん中あたりのページをパラっと開けたところ、偶然にもバーニー先生がボローニャに滞在していた頃の記事(前述)に遭遇。この辺はかつて自分でも訳してみたことがあり、フンフンと言いながら眺めていたのですが、ファリネッリが先のスペイン王妃から下賜されたハープシコードについて話しているくだりで違和感を感じて目が止まりました。 問題の部分は、スカルラッティの「練習曲集」についての言及で、以下のようになっています。 …スカルラッティの最初の二つの教則本は、女王がオーストリア皇女であった時代に彼女のために書かれたもので、ヴェネチアで出版された初版本は彼女に献呈されている。[同書pp.283]ほとんど読み飛ばしそうになったところでしたが、「ん?オーストリア皇女?え、誰それ?」となり、それが「アストゥリアス皇太子妃の時代」と書かれた部分であることに気づいてしまいました。(以下ファクシミリ版の該当ページ) オーストリア(Austria)とアストゥリアス(Asturias)、確かに元の綴りは似ていますが、後者はスペインの最北部にある地方の名前で、スペインの皇太子夫妻が伝統的に名乗る称号でもあります。(もちろん中欧の国オーストリアとは全く無関係。)「オーストリア皇女」といえば、19世紀末のオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝、フランツ・ヨーゼフ1世皇后だったエリーザベトが有名ですが、このままだと何も知らない読者はスペイン王妃(マリア・バルバラ)がオーストリア=ハンガリー帝国の関係者と誤解しそう(?)です。 これを「誤訳」とまで言い切れるかはさておき、やはり「調べ」が足りなかったことは明らか。亭主が察するに、ヨーロッパの地理・文化に詳しそうな邦訳者にとっても、ピレネーの向こう側、イベリア半島というのはやはり馴染みがないのだな、という状況が端なくも現れているように見えます。 というわけで、邦訳を成し遂げるという大業に比べれば些細なキズですが、いささか残念に思うところではありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 31, 2022 05:20:24 PM
コメント(0) | コメントを書く
[音楽] カテゴリの最新記事
|