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一昨日の朝古楽で、番組のオープニングとエンディングで用いられているヘンデルの「水上の音楽」の中の楽章が流れました。その後、MCの大塚直也氏が珍しくも演奏そのものについてのコメントを披露。以下その部分を書き起こしたものです。…この番組のオープニングとエンディングでは、今申しあげたガーディナーが指揮するイングリッシュ・バロック・ソロイスツというイギリスの団体の演奏でお楽しみ頂いているんですが、もちろんいろいろな団体の演奏があります。そして、本当に団体ごとに特徴が違うと言いますか、なんですが、特にこのガーディナの指揮する イングリッシュ・バロック・ソロイスツの演奏はですね、大変にこう、丁寧と言いますか、まスパイスが効いているという風にはちょっと言えないんですけども、しかしですね、ヘンデルがこう、本当にあの目立たないところに仕込んでいる、そういったちょっとした動きなども丁寧に丁寧に演奏していますし、それでいて全体の華やかな雰囲気を保っている、という風に、とてもいい演奏だなという風に思います。また一概に言うのは難しいんですけども、イギリスの団体の特徴かなと思うんですが、あの管楽器の響きがとてもあったかいと言うか、大変に技巧的なのにとてもあったかい音がして、弦楽器との馴染みがいいのもこの演奏の特徴かな、というふ風に思います。 番組のWebページにある情報をもとに調べたところ、オンエアされた音源は1980年の録音で、1982年にエラートからリリースされたものでした。
ちなみに、亭主がかつて愛聴していた「水上の音楽」の音盤はやはり英国のピノック+イングリッシュ・コンサートの演奏で、録音も1983-4年とガーディナー盤とほぼ同じ頃になります。
ところで、大塚氏のコメントを聞いて思い出したのが、ファビオ・ビオンディとエウローパ・ガランテの創設の経緯です。彼は、1980年代までに確立したピリオド奏法による古楽復興の立役者として斯界をリードしていたピノックやホグウッドの「英国風」ヴィヴァルディに物足りなさを感じ、もっとイタリア的な響きを追求しようと自分たちの古楽オケを創った、と言います。
ここで名前が挙がっているピノック(1946-)、ホグウッド(1941-2014)は、ガーディナー(1943-)ともほぼ同世代。彼らはどうやらレオンハルトやアーノンクールに代表されるヨーロッパ大陸の古楽復興運動から意図的に(?)距離を置いていた様子が伺えます。
ファビオ・ビオンディの言う「物足りなさ」、最近読んだ「古楽の終焉」(B.ヘインズ著)の中では、「英国風古楽は退屈で活気がない」とまで言われてしまいます。そして、それがロマン主義に対抗するための「モダニズム」的態度から来ていることが指摘され、「ストレート・スタイル」と呼ばれています。例えばこうです。私が最近聴いた録音の中で最もつまらなかったのは、名声を博している合唱団で、一声部二人ずつ(個々の裁量や、表現があらかじめ決められているという制限つき)のタリス・スコラーズだ。彼らはときおりヴィブラートをかけながら、目新しさに乏しい歌い方をする。力量はあるのだが退屈で、何もメッセージが伝わってこない。 ヘインズ先生、さらに続けてこのスタイルを好む、音楽家やリスナーがいることは知っている。何しろ、これに関連する”イージー・リスニング”や”心地良い”音楽の市場があるくらいだから。音楽をあまり知らない多くの人たちは私に、”クラシック”は、秩序が感じられて癒されるから好きだと言う。私はそういったことを目標にしてはいないが、誰もが同じ映画を好きにならなくてもいいように、私たちの誰もが音楽のゴールや目的を同じくすべき理由はない。それでも、ピリオド・ミュージッキングにかかわっている演奏家の多くにとって、ストレート・スタイルの解釈は退屈で活気がない。
…ストレート・スタイルは、情熱的で和らぐことのない激しさをもつロマン主義への解毒剤として、多くの人々に好まれる。問題は何もかも抑制し、控えめにしてしまうことだ。欠けているのは修辞学の炎、ロマン派ではない表現的音楽である。(「古楽の終焉」pp110-111) (逆に言えば、大塚直哉氏のコメントは、英国風古楽が持つ「秩序が感じられて癒される」スタイルを擁護しているとも。亭主もその点には大いに賛同するところです。)
ところで、このストレート・スタイルという概念に出会ったことで、亭主は以前カークパトリックの著作「ドメニコ・スカルラッティ」の演奏に関する章の冒頭にあった以下の部分がよりリアリティーを持つことに。18世紀音楽を型に嵌めることは前世紀には日常的に行われていたが、20世紀の古楽復興者や古楽狂の間でも依然として見られる。むしろ彼らはそれをより窮屈な衣装、18世紀と「ロマン主義的」音楽との間に横たわる超え難い深淵を新たに認識することによって生み出された拘束衣※)とも呼ぶべきものに無理やり押し込もうとした。「様式感覚」が台頭した結果、歴史研究ではしばしば強く否定される「真正なる様式」という概念がはびこり、それによってそのような感覚を自己正当化しようとした。18世紀音楽は純粋で抽象的であることを強要され、人間性は最も限られた形でのみ許容された。特に1920年代以降のドイツにおいて、ヴァグナーやレーガーに食傷したばかりの音楽界では、「古楽」における「表現性」や柔軟性はアルコール依存症から抜け出たばかりの者が1杯のウイスキーを見るがごとく、そのような魅力に対する恐れをもって眺められたのである。このような連中を撲滅することこそは、ハープシコード奏者あるいはスカルラッティの演奏者が担う最も高貴な使命なのだ!
(※ 原文ではストレート・ジャケット (strait jacket) [強調は亭主]。) どうやら「英国古楽」のストレート・スタイルも、元を辿るとこのような20世紀前半の状況に由来するのかもしれません。いずれにせよ、1980年代以前の録音でしか知らないバロック以前の音楽があれば、もしかすると今では演奏スタイルは激変しているかも、という意味で最近の録音で聞き直すのはスリリングな体験になりそうです。
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