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未音亭日記

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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) tekutekuさんへ これまた情報ありがとうご…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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December 4, 2022
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カテゴリ:音楽
このところ、巷では旧・統一教会が引き起こした問題とその対応についての様々な報道がなされています。この教団については、亭主も大学生の頃(1970年代末)に、友人らから「『原理研究会』という学生サークルは統一教会の下部組織のようなもので、信者集めのために勧誘してくるから気をつけた方がよい」と言われていたのを今でも思い出します。とはいえ、当時はほとんどその実態は知らず、単に怪しい新興宗教のようなものという程度の認識しかありませんでした。ところが最近の報道によると、この教団が不安という誰もが持つ感情を煽り、信仰に縛り付けるとともに法外な金を寄進させる、といった反社会的な行為を長年おこなっていて、しかもそれが日本人を標的にして組織的に行われいた、というのですから驚きです。

とはいえ、キリスト教や仏教などの伝統宗教が行っている活動と、これらの反社会的な宗教(カルト)のそれとの間に明快な境界線を引くことが難しい、ということも容易に想像がつきます。なぜなら、宗教は本来「個人の内面」に関わる事柄ですが、他人の心の内を知ることには原理的な限界があるからです。(現代の脳科学をもってしても、ヒトの「心」が何なのかは謎、というのが現状です。)

かつては、キリスト教会においても集金のために「これを買えば現世の罪を許される(つまり天国に行ける)」と称した「贖宥状(免罪符)」なるものが売られていました。これは文字通り死後の世界(天国vs地獄)を人質にとって、「これを買わないと地獄に落ちるぞ」と暗に信者を脅していることに他なりません。このようなやり方に深い疑問を抱いたマルティン・ルターが、贖宥状販売を推進する当局者に対して議論を呼びかけるべく「95ケ条の論題」という張り紙を掲げたところ、あの宗教改革という一大運動が巻き起こったことはよく知られています。

宗教改革の発端は、「人は善行や功徳によって救済されるのか」という純粋に信仰上の問題(聖書は明確にこれを否定している)でしたが、運動そのものはローマ教皇を頂点にした宗教権力と神聖ローマ皇帝を中心とした世俗権力の間の権力闘争(さらには封建領主と農奴の間の階級闘争)という当時の政治対立に火をつける口実となり、同じキリストの名において人々が殺し合いをする、という何とも不条理な戦争へと発展しました。(17世紀前半に起きた宗教戦争ではドイツが酷く荒廃し、セバスティアン・バッハの時代にまで深刻な影響をもたらしていたと言われています。)

このような血生臭い歴史を持つ西洋キリスト教において、音楽が信仰を強化するための有力な道具の一つだった、ということは常に思い出されるべきことだと思われます。18世紀以前には、王侯貴族と並んで教会は音楽の強力なスポンサーであり、教会音楽はキリスト教の教義を広め強化するためのプロパガンダの一翼を担っていたわけです。

こういう背景もあって、亭主はバッハの教会音楽に対し、どう接していいものか迷うことがよくあります。例えば「古楽の楽しみ」と言う番組においても、案内役の鈴木優人氏はバッハの教会カンタータをオンエアするに際し、作品を紹介した後でよく「それではどうぞお楽しみください」と語ります。しかしながら、亭主のような無神論者にとって(ドイツ語はよくわからないとはいえ)福音書に関する内容が歌われている音楽を「楽しめ」と言われると、どうしても引っかかるものがあります。彼のマタイ受難曲などに至っては、どう考えても「楽しむ」どころではなく、その音楽は「お前はイエスの受難を信じないのか」と迫ってくる感じです。

バッハの置かれた状況は、例えば20世紀で言えば旧ソ連下でのショスタコーヴィッチのそれにも似たところがあるでしょう。プロテスタントの教義をソ連共産党のドグマ(あるいはスターリン主義)に置き換えれば、双方で客観的な状況は同じに見えます。(バッハの本心は知る由もありませんが、晩年に大枚をはたいてルターの豪華本著作全集を購入したぐらいですから、おそらく信仰への葛藤はなかったと推測されます。一方、ショスタコーヴィッチはより自覚的な近代人であり、その分内心の相剋も大きかったことが彼の「回想録」から窺えます。)

もしバッハを擁護する人が、「バッハの教会音楽を真に理解したければ、お前はキリスト教に入信し、聖書を篤く信奉しなければならない」と主張するのであれば、亭主は「いえ結構です」と答えるのみです。(音楽を理解するために内心の自由を侵されるなどは論外。)

このような宗教音楽に比べれば、同じバロック以前の音楽でも王侯貴族を慰めた「娯楽音楽」の方が、よほど無心に音楽を楽しむことができます。音楽は本来(信仰などに関わりなく)誰にでも開かれたものであるべきですが、例えばバッハと同時代人のヘンデルやスカルラッティの音楽はまさにそのようなものと感じられます。バッハについても、ライプチッヒに移る前に書かれたイタバロ様式の音楽はどれも素晴らしく、最高の「娯楽音楽」と言えるでしょう。ましてや、「教会音楽」の方が「娯楽音楽」より優るといった言説や仄めかしは、宗教者のプロパガンダとも取れる危険な匂いを感じます。

ちなみに、来年はバッハがトマス・カントルに就任(1723年)してからちょうど300年だそうです。亭主にしてみれば、彼がライプチッヒなどに行かずに終生ケーテン宮廷で活躍していたらさぞや多くの名作が生まれただろうに、と大いに残念に思うところです。









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Last updated  December 11, 2022 10:02:24 PM
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