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未音亭日記

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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) tekutekuさんへ これまた情報ありがとうご…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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February 5, 2023
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カテゴリ:音楽
先週の朝古楽でセバスティアン・バッハによるハープシコードのためのトッカータ全7曲がオンエアされたのを録音で拝聴。亭主はこの中のいくつかをたまに弾くこともある一方、ほとんど馴染みがない曲もあり、改めてこの作品群に関心を抱くことに。

特に亭主の気を引いたのが、BWV914についてのMC(鈴木優人氏)の解説で、その終曲にあるフーガのテーマが何とイタリアの作曲家、ベネデット・マルチェッロの「フーガ・ホ短調」という作品のパクリであることがバクロされたことでした。

ベネデット・マルチェッロといえば、同時代のオペラ興行を痛烈に風刺した「当世流行劇場」という著作で有名なヴェネチアの音楽家です。兄であるアレッサンドロ・マルチェッロの作曲によるオーボエ協奏曲はバロックの名曲として有名で、バッハがハープシコード用に編曲したことでも知られていますが、弟の作品も借用していたとはつゆしらず。

そこで、ベネデットの原曲との関係について調べ始めたところ、ジョルジョ・ペステッリというイタリアの音楽学者による表題の論考に行き当たりました。この論考、お題にある三人の生誕300年の記念に出版された論文集「Tercentenary Essays, Bach, Handel, Scarlatti 1685-1985」(Ed. Peter Williams, Cambridge University Press, 1985)に収まっており、亭主の「スカルラッティ文庫」の一冊として書棚に鎮座しています。(ちなみに、ペステッリはその昔ドメニコ・スカルラッティのソナタを論じたモノグラフをものしたことでよく知られています。)




ペステッリの論考は、バッハだけでなく1685年組の三人にとってのトッカータというジャンルの位置付けを論じたもので、大変興味深い内容です。そのさわりを少しだけ紹介すると、著者はトッカータの本質を「perpetuum mobile 無窮動」、つまり常動曲と捉え、鍵盤上の高度な名人芸と即興性を旨とするジャンルと考えているようです。また、歴史的には「トッカータ」と題する鍵盤作品は17世紀からあった(フレスコバルディなど)ものの、バロック後期に現れたそれらは17世紀末に高度に発達した独奏ヴァイオリンの名人芸的な演奏に対抗し、鍵盤でも同じようなことを試みる音楽家が同時期に現れたことに端を発する、という説を展開しています。(著者は「ハープシコード・トッカータがローマ・ナポリ・ヴェネチアで『結晶化』した」と表現しています。)そこで名前が上がっているのがローマのアレッサンドロ・ストラデッラ、あるいはアレッサンドロ(父)・スカルラッティ、フランチェスコ・デュランテといったナポリ学派の面々。

話をバッハのトッカータBWV914に戻すと、この作品は延々と16分音符の分散和音的なパッセージが続き、まさに常動曲そのもの。元になったマルチェッロの方は聴いたことがなかったのでネット上で動画を探してみると、オルガンによる演奏がいくつも転がっていました。こちらは聴いてびっくり、バッハの主題がほぼそのまんまのパクリであることがよくわかります。(たとえばこちら:https://youtu.be/HSTJ3zL6IfA

バッハがどのような経緯で弟マルチェッロの作品を目にすることになったかははっきりしないようですが、ペステッリによると兄マルチェッロの作品と同じく、ワイマールのエルンスト公子がオランダ留学(1711-1713)から帰国の際に大量に持ち帰ったとされる音楽資料の中にあったのではないかとしています。

ところで、ペステッリはこの論考の中でトッカータを論じつつ、ヘンデルとスカルラッティとの有名な鍵盤上の腕比べのエピソードに触れて、ヘンデルの相手をしたのは息子ドメニコではなく父アレッサンドロの方ではなかったか、という大変興味深い可能性を指摘しています。亭主は最初半ば冗談かと思いましたが、読んでみるとなかなか説得力があります。

論点としては、まずこのエピソードが1760年にマナリングによって書かれたヘンデルの伝記のみで伝わっていることで、正確性が疑われることが挙げられます。マナリングは伝記の中で色々と記憶違いを書き付けていることが分かっており、執筆時点で半世紀も前の腕比べの報告(ヘンデルがイタリアに滞在したのは1706-9年)も例外ではないだろうというわけです。(そもそもあのような腕比べが実際にあったかどうかすら確実には言えないようです。)

次にペステッリが指摘するのが、ドメニコの当時(=ナポリ・ローマ時代)の音楽様式です。彼は、オペラ作曲家である父親がその主要なメンバーであったオットボーニ枢機卿の音楽サークルの完全な影響下にあり、もっぱら父親やコレッリに代表される様式に従った音楽を作っていました。(カークパトリックによれば、ドメニコがあの個性的な一群のソナタを作曲し始めるのは1719年にローマを去って以降と考えられています。)腕比べが鍵盤の名人芸を競うような場だとすれば、このような「上品な」音楽はいかにも目的にそぐわない、というわけです。

一方、アレッサンドロの方は、先にも触れたように当時ちょうど無窮動的なトッカータを作曲しており、このような作品こそが腕比べの格好の題材になり得た、というわけです。実際、例えば彼のトッカータ第1番ニ短調(Toccata per cembalo d'ottava stesa in re minore)などを聴くと、さもありなんといった雰囲気(例えばこちら:https://youtu.be/68_9kZWs50Q)。ヘンデルにもこの時代に作曲したとされるトッカータがあるそうで、師匠のザカウの作品との類似などが論じられています。

ヘンデルがイタリアを訪れていた頃、アレッサンドロ(1660年生まれ)は40歳代後半とそれなりに若く、ドメニコと違って外向的な性格だった(?)ので、枢機卿の音楽会を盛り上げるために一役買って出ることもあったろうと想像できます。

…というわけで、意外と納得感のある新説(珍説?)でした。





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Last updated  February 5, 2023 08:38:12 PM
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