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未音亭日記

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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) tekutekuさんへ これまた情報ありがとうご…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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July 9, 2023
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カテゴリ:旅行
まずは先週ちょっと触れた今右衛門窯について。窯元直営ショップは日曜日が定休日ということで閉まっていたのですが、脇にある「今右衛門古陶器美術館」は開館中ということで覗いてみることに。




今右衛門古陶器美術館では、第十代〜十三代(明治期以降)の当主が収集した古伊万里・色鍋島などの古い磁器が陳列されています。規模としてはこじんまりしていますが、やはり古伊万里を中心にした初期有田の磁器の歴史に関する資料はなかなかのもの。驚いたことに、亭主供が館内に入ると二十人ほどの団体さんの先客が鑑賞中で、その人気ぶりに感心させれられました。

ここで少し有田焼の由来を復習すると、16世紀の終わり、豊臣秀吉は天下統一を成し遂げますが、皮肉にも太平の世になったおかげで、彼は手下の武将達の忠誠を繋ぎ止めるための新たな「領地」を与えることができなくなりました。(封建制の下では給料とは領地からの上がり。なので昇給には新たな領地が必要というわけです。)そこで、秀吉は困った挙句(?)、領地を求めて朝鮮に出兵した、というわけです。(他にも諸説あり。)この本末転倒とも言える侵略戦争、所期の目的は果たせなかったものの、代わりに(?)李朝の陶工を日本に連れ帰りました。その後日本に帰化した彼らが1610年ごろから有田の地で磁器焼成を始めたのが日本の磁器の始まりと言われています。


時はちょうど江戸時代初期、その頃焼かれていた磁器はややくすんだ地肌に素朴な染付が施された日用雑器で、今では「古伊万里」と呼ばれ、その古拙な味わいが近年陶磁器愛好家の間で大人気となっています。その後、1640年代に中国より赤絵(色絵)の技法が伝わり、赤絵付の仕事をしていた陶工の中にいたのが初代今右衛門とのことで、後に鍋島藩の保護のもとで赤絵屋を集結した赤絵町が形成され、その中でも最も技術の優れた今泉今右衛門家が藩の御用赤絵師として指名され、藩窯の色絵付に携わったと伝わっています。(藩窯で焼かれた磁器は藩内での使用、および贈答等のためのもので、外部には一切出さなかったとのこと。)

さて、有田で陶磁器ショップをひやかしながらメインストリートを歩いていたところ、いつの間にかJR有田駅への交差点に差し掛かりました。右に行くと駅、左手の先には「九州陶芸文化館」とあります。行きのタクシーの中で運転手さんが「こちらも是非見るといいですよ」と勧めてくれたことを思い出し、多少歩き疲れていたものの遠回りして訪ねることに。




ところが、館内に入るやその膨大な規模の展示品に圧倒されることに。(ここに比べれば有田町内の私設美術館はおまけみたいなものでした。)中でも群を抜いているのが「柴田夫妻コレクション」。有田の磁器を網羅的・体系的に収集した一万点を超える磁器のコレクションとして、国の登録有形文化財(美術工芸品)に工芸部門の第1号として登録されたとのこと。当館ではその中から約千点を入れ替えながら展示しているそうです。(なので、全部見るためには入れ替えごとに足を運ぶ必要あり。)このところ蕎麦猪口に凝っている亭主は、古伊万里の蕎麦猪口がたくさん並んだコーナーで釘付けになりました。




また、展示の一角には江戸時代にヨーロッパに渡った磁器を買い戻して集めた「蒲原コレクション」のコーナーがあり、マイセンをはじめヨーロッパ磁器が日本のそれにどれほど影響を受けたかを知ることができます。なかでも人気だったのが初代柿右衛門の色絵磁器で、マイセンも多くのコピーを焼いていたことが分かります。(柿右衛門のオリジナルとマイセンのコピーを見比べることができます。)

ちなみに、柿右衛門も赤絵師として有名で、1640年ごろから活躍していました(窯は有田町からは少し離れたところにあり、残念ながら今回は未訪問)。亭主は小学生の頃に学研の「科学/学習」で柿右衛門が独自に赤絵を発明したことについての物語を読んだ記憶が鮮明に残っています。そこでは、彼の手法による赤絵が中国伝来のそれよりも鮮やかであったことが強調されており、子供心に想像を掻き立てられたことを思い出しました。

その後、電車で武雄温泉に移動し「東洋館」という温泉宿で一泊。予約した際には気づいていなかったのですが、宿は有名な「楼門」のすぐ脇にある老舗旅館で、その昔あの宮本武蔵がここで湯治をしながら「五輪書」の構想を練ったとか(?)。お湯は炭酸ナトリウムが主成分の単純アルカリ泉で、浸かると独特のヌルヌル感が気持ちよいお湯でした。




翌朝は梅雨前線の影響で朝から土砂降りでしたが、幸運なことにちょうど宿をチェックアウトしようとした9時ごろに小康となり、目の前にある楼門で9-10時だけ行われるというガイド付きの見学ツァーに参加。




この楼門は東京駅の駅舎を設計したことでも有名な佐賀県・唐津市出身の建築家、辰野金吾が設計したことで知られています。東京駅が10年ほど前に修復され、戦災で消失した3階の八角屋根も復元されましたが、その際に八つの方向に対応して十二支の中の8種類の動物がコテ絵で描かれていたことがわかりました。そこで、残りの4種の動物はどうなったかを調べていた人が、同じ辰野金吾が同じ頃に手掛けたという武雄温泉の楼門について現地に問い合わせたところ、楼門内部の天井の四隅に透かし彫りで入っていたことが判明。これで十二支すべての動物の所在がわかったということで、当時テレビ番組などでも大きく取り上げられたのでご記憶の方もおられるでしょう。




見学ツアーが終了したところで、今度は奥にある温泉の「本館」内部を見物。こちらは現在「記念館」として公開されており、温泉は引かれていませんが、明治から昭和初期の典型的な公衆温泉施設の造作を眺めることができます。建物の外観は宮大工が建てた神社のような雰囲気で、中に入ると一階にいくつかの湯船(立ち湯)、二階に広い座敷の休憩所という構造は、松山の道後温泉本館とそっくりです。




さて、北部九州は朝から豪雨の予報が出ていたこともあり、記念館の方は早めに切り上げることに。駅に着いて電光掲示板を見ると、どうも大幅な運行の遅れが出ているようです。予定より50分近く遅れて来た「リレーかもめ号」に乗って博多を目指すことに。とはいえ、途中では道路まで水が溢れた用水路や、一面水に使った田畑が広がる風景が広がり、列車も安全を確認しながらのノロノロ運行。さらに1時間ほど遅れての到着となり、最後はちょっとハラハラさせれれました。





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Last updated  July 9, 2023 10:00:40 PM
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