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未音亭日記

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tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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July 23, 2023
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カテゴリ:音楽
以前このブログで、J.S. バッハのことを「音楽の父」と紹介したクラシック音楽の某初心者向けテレビ番組の内容をイジった際に、ウィキペディアのバッハの項目中で、彼が「日本の音楽教育では『音楽の父』と称された」という記載があるのを見つけたこと、またその根拠として「教養としてのバッハ - 生涯・時代・音楽を学ぶ14講」というムック本(2012年)の中の第1講「バッハの生涯 - バッハ研究をめぐる諸問題」(礒山雅担当)が引用されていることを書きました(こちら)。

件の本は既に絶版になっており、亭主はこれまで手に取る機会がない状態でしたが、その後ネット上を検索していたところ、電子書籍版の試し読みページに遭遇し、冒頭の数ページを見ることできました。以下、その部分から引用です。
 西洋音楽史において、バッハはバロック音楽(17世紀から18世紀前半にかけての音楽の総称)の最後に立つ作曲家と位置づけられる。かっての音楽鑑賞教材でバッハは「音楽の父」と呼ばれ、西洋のクラシック音楽はバッハから始まる、と教えられていた。しかし今日では、バッハ以前にも長く豊かな音楽の鉱脈があることが認識され、中世の音楽、ルネサンス音楽、バロック音楽というくくりのもとに、さまざまな分野の音楽が復活し、楽しまれている。それらを総称した「古楽」という名称も、最近はよく使われる。
 バロック音楽の最後に立つバッハを、研究者たちは、それ以前の音楽の総合者、完成者とみなしてきた。「バッハはひとつの終極である。彼からはなにも発しない。すべてが彼をめざして進んできた」というアルベルト・シュヴァイツァー(医師でオルガニスト、バッハ研究家。1875-1965)の言葉は、こうした捉え方の典型である。だが、バッハ以後の音楽家たちがバッハを音楽の源流、規範的存在とみなして意識したことも事実であり、バッハのなかに、未来を拓く側面が多数蔵されていることはまちがいない。要するにバッハは、それ以前の音楽とそれ以後の音楽の敷居に立つ、巨大な分水嶺とみなすことができる。(太字強調は亭主)
引用部分の前半を読むと、ある時期まで日本の学校教育では(音大は知らず)、音楽鑑賞の教材の中でバッハを取り上げる際に、彼のことが「音楽の父」と紹介されていた、ということだと想像できます。実際、亭主もこの尊称は明確に聞き覚えがありました。(正確にいつどこで最初に見聞きしたのかは不明ですが、多分中学校か高校(1970年代)の音楽教室に掲示されていた音楽家の肖像画の中ででバッハが最初に来る理由としてそう説明されたような気がします。)

一方で、少なくとも亭主の子供達の世代が使っていた音楽の教科書(1990年代末以降)にはそのような記載はなかったと思われ、近年の学校教育ではあまり耳にしないことも事実。磯山さんの記述からは、そのような変化の理由が「古楽」の復活にある、というふうに読めます。

もちろん、古楽の復活(復興)が一朝一夕に起きたわけでないことは明らかですが、亭主が見るところ大きな転換点は1980年代半ば、ちょうどバッハ・ヘンデル・スカルラッティの生誕300年を迎えて古楽が大きな盛り上がりを見せた頃ではないかと思われます。この頃を境に、例えばバロック期の鍵盤音楽はピリオド楽器で弾くことが主流になり、ピアノによる録音は減少の一途を辿ります。オケやアンサンブルもピリオド楽器による演奏が普通になり、それとともにバッハ以前の膨大な楽曲群(それもクラシックとは異なる魅力を備えた名曲の数々)の存在が日本の一般聴衆にとっても明らかになっていきます。

このような状況で、あたかもこれら「古楽」を無視するような「音楽の父」という尊称が不都合であることは誰の目にも明らか。

では、某テレビ番組のMC氏は、なぜこのような時代遅れの尊称にこだわったのか?

ここからは例によって亭主の勝手な妄想ですが、彼は古楽の隆盛をわき目に衰退しつつあるクラシック音楽を何とか擁護し盛り上げようと考えた結果、あのような古びた尊称を再登場させたのではないか、と推測する次第。

ついでにもっと妄想すると、MC氏(1982年生)は古楽がまだマイナーだった時代、つまりクラシック音楽(=その演奏家)が輝いていた20世紀のちょうど末期に音楽教育(それもかなりのスパルタ)を受けた世代であり、クラシック音楽の「過去の栄光」に強い郷愁を感じているとも想像できます。

ところで、磯山さんの文章を注意深く眺めると、例の尊称が、音楽教育といった漠然とした文脈ではなく「音楽鑑賞教材」という言葉とセットで出てくることに気づきます。

ここでキーワードになるのが「鑑賞」という言葉。これはその背景に「鑑賞に値する芸術音楽」というカテゴリー、すなわち「古楽の終焉」の著者、ブルース・ヘインズ氏が言うところの「正典(カノン)」に相当する楽曲が存在することが前提となっています。

そこで、小中学校の音楽における「鑑賞用教材」を眺めると、以前に比べて数は減ったものの、相変わらずバッハ以降の有名クラシック音楽が並んでいるようです(例外がヴィヴァルディの「四季」から「春」)。ご興味がある方は西島千尋著、「クラシック音楽は、なぜ“鑑賞”されるのか―近代日本と西洋芸術の受容」(新曜社、2010)の付録としてネット上に公開されている鑑賞教材一覧表を眺めるとよいでしょう。

それにしても日本の音楽教育、いまだに「名曲鑑賞」に拘っているとはびっくり(これも過去の栄光への郷愁?)。もはや人ごととはいうものの、やや心配になってきます。









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Last updated  July 24, 2023 08:05:47 AM
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