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未音亭日記

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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) tekutekuさんへ これまた情報ありがとうご…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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September 3, 2023
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カテゴリ:音楽
先週金曜日のFM番組「古楽の楽しみ」で、表題の曲がオンエアされました(演奏はトン・コープマン指揮、アムステルダム・バロック・オーケストラ&合唱団、1995年録音)。この曲、カンタータ第208番「狩だけが楽しみ」(BWV208)中の第9曲のアリアで、バッハの楽曲の中でもとりわけ人気の高いものの一つです。

原曲はアリアということで、ソプラノ歌手による歌が入りますが、器楽のみの編曲版もいろいろと存在するもよう。(例えばピアノ用ではエゴン・ペトリの編曲など。)同番組の前身で1993-7年に放送されていた「あさのバロック」の番組開始時のテーマ音楽として流れていたのも、そのような器楽編曲版だとかで、日本ではこちらの方が有名かも知れません。(YouTube上に当時の放送の録音と思しきものがアップされていました。)



ちなみに、この曲は冨田勲のシンセサイザーによるアルバム「バッハ・ファンタジー」の冒頭に「早起き鳥」という題で収録されており、亭主は今でも時々目覚まし音楽に使っています。(このアルバムが世に出たのは1996年と、ちょうど「あさのバロック」放送されていた期間に重なります。)

調べてみると、原曲は1713年ごろに作られたとされており、彼のカンタータの中でも最初期の作品だとか。1713年といえばバッハはまだ28歳と若く、ワイマールの宮廷に支えていた頃(1708–1717)にあたります。この時代のバッハには明朗さやユーモアを感じさせる作品が少なくありませんが、この曲もそのようなものの一つで、こうして改めて聴くと心に染み渡る滋味のようなものを感じます(歳のせいかもしれませんが…)。

話が脱線しますが、ワイマール時代のバッハといえば、すぐに思い出すのがヴィヴァルディやマルチェッロ、アルビノーニといったイタリアの作曲家による協奏曲を鍵盤楽器用に編曲した作品群。これらの成立の経緯としてよく語られるのが、大の音楽好きだった領主エルンスト・アウグストとその弟、ヨハン・エルンスト公子のエピソードです。

ヨハンは、1711年から1713年にかけてオランダに留学し、当時楽譜出版の中心地でもあった現地で大量の楽譜を買い込んで帰国。彼はアムステルダム滞在中に管弦楽曲や協奏曲ををオルガン独奏で演奏するというスタイルを知り、帰国後バッハにこれらの作品の鍵盤用編曲を注文したことで、あの素晴らしい編曲作品群が生まれました。(これらの編曲に取り掛かったのが、ちょうど前述のカンタータを作曲した頃と推測されます。)

ところで、当時のワイマール、実は二人の領主による共同統治という特異な政治体制になっていました。バッハが雇われていたのは第一領主=ヴィルヘルム・エルンスト。一方、前述の編曲を注文したヨハン・エルンスト公子の兄、エルンスト・アウグスト(ヴィルヘルムの甥)は第二領主でした。このような権力の二頭体制、うまくいかないことが多いのですが、この二人の関係もご多分に洩れず徐々に悪化していったようで、そのうちヴィルヘルムは自分の宮廷楽団員が第二領主の宮廷で活動することを禁じるようになりました。

ところが、バッハは編曲の注文を受けていたこともあってか、そんな禁足令にはお構いなくエルンストの宮廷への出入りを続けたようで、ヴィルヘルムから睨まれることに。実際のところ、ヴィルヘルムは先のカンタータの出来栄えなどからバッハを高く評価していたようで、1714年にはハレへの転職を引き留めるために、月に1曲のカンタータの作曲と演奏という新しい仕事とともに、彼を副楽長に次ぐ地位(ナンバー3:楽師長)に任命しています。それだけに、バッハが自分の言うことを聞かないことが余計に腹立たしかったのでしょう。1716年、この年に他界した宮廷楽長の後任人事からバッハを外したのはその腹いせだったと言われています。

さて、使用人の身分にある者として、普通の人間ならここまでこじれる前に雇主に対して反省と恭順の意を表すところです。が、何とバッハ、今度は第二領主(の夫人)のつてを通じて新たな就職先(ケーテン宮廷)を見つけ、辞職を申し出ます。これにヴィルヘルムは怒り心頭、バッハはついに「不服従の罪」で4週間も投獄される始末(やれやれ…)。

このエピソード、表面的に見れば、バッハは二人の領主の政治的ないさかいに巻き込まれた被害者のようにも見えます。が、元を辿れば、バッハに「他者の感情」への想像力が著しく欠けていることは明らか。

原因には2つのことが考えられます。一つは彼の育った環境。十歳までに両親を失い、監獄のような寄宿舎学校では猛烈ないじめを受けた、という厳しい環境の下で、対人関係のスキルが身に付かなかった可能性です。

もう一つは彼の生まれつきの性格。バッハには若い頃から同じような騒動のエピソードに事欠かず、それが壮年期にまで続いたこと(ライプツィヒ時代後半には、雇用主であるライプツィヒ市の待遇に不満を持ち、市の頭越しにザクセン選帝侯に直訴)を考えると、彼がある種の発達障害を抱えていた可能性すら考えられます。

いずれにせよ、バッハとその音楽は、「性情の善し悪しと作品の素晴らしさとは別」であることのよい例と言えます。この点で、日本のクラシック音楽界が愛用する「音楽の父」という尊称は、人間としてのバッハの偶像化を招く懸念が大きく、彼の音楽をそれ自体として堪能するのには返って邪魔なだけだとも言えるでしょう。









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Last updated  September 3, 2023 09:54:34 PM
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