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未音亭日記

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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) tekutekuさんへ これまた情報ありがとうご…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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March 31, 2024
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カテゴリ:音楽
BCJの鈴木優人氏が番組を担当した先週の「古楽の楽しみ」は、「鍵盤楽器の歴史」と銘打って中世のクラヴィシンバルムやポルタティフ・オルガンから19世紀のピアノ(ショパンが弾いたプレイエル/エラール社製)までの楽器の変遷とそれに伴う音楽の変化を4日間の駆け足で辿る企画。そして最終日では、ゲストにタレントピアニスト・角野隼斗氏(「かてぃん」)を迎え、4日間の内容をを振り返るとともに、バロックスタイルでの即興共演も披露する、というサービス満点の放送でした。

なかでも興味深かったのが、最終日のMCとゲストとの対話です。このお二人、既に旧知の間柄とのことですが、やはり両者を結びつけたのが即興演奏への関心です。バロック音楽が本質的に機会音楽であり、即興性がその重要な要素であることを知った隼斗クン、そこからバッハにも関心を持つようになったとか。

そこで話がバッハの音楽やその演奏に及び、パルティータ第2番からアルマンドの冒頭をグレン・グールドによるピアノ、続いてジークベルト・ランペによるチェンバロの演奏を聴いたところで交わされたお二人の会話、さりげなくも古楽演奏の核心に触れるような内容に思われたので、以下に(書き起こしで)引用してみましょう。

(隼)…こういう 揺れ方って モダンピアノだとあんまりないじゃないですか。まぁルバートはもちろんロマン派音楽にたくさんありますけど、それともまた違う独特な、というかもっと大胆に揺れるといいますか...
(優)そうですね...
(隼)それでいて装飾音も自由に入っていくじゃないですか。なんかバッハを知っていくうちに チェンバロの、ランペとか色んなもの聴いてみるわけですけど、恐らくその、音量が変えられなかったからこそ、装飾音や時間の伸び縮みによって音楽表現をしていたんだろうな…
(優)いやおっしゃる通りですね。一点をこう、なんというか固定することで別のところで表現するようになるっていうのは、例えば ギターとかリュートの演奏でもそうかもしれないんですけれども、やっぱり撥弦楽器の抑制された音量の幅の中ではむしろ必要な技術と言いますか、それがピアノになってそれが必要なくなったわけではないと思うんですけれども、まぁこのチェンバロの演奏からまた逆にインスピレーションを受けたのがもしかしたらそのフランチェスコ(トリスターノ)さんとかあるいは角野さんの演奏なのかなぁと思いますね。
(隼)はい、そうですね 。

これには亭主も深く同意するとともに、自分が彼ぐらいの頃にはこういうことを考えもしなければ理解もしていなかったことを思い起こし、「かてぃんよ、お若いのによく分かってるじゃん!」と大いに感心させれらました。

ここであえて付け加えるならば、このような「装飾音や時間の伸び縮みによる音楽表現」が必要になったのは、バロック後期において聴衆(パトロン)が王侯貴族から市民階級へと入れ替わるにつれ、音楽の主流も彼らの好みに合わせて調性音楽とホモホニックな音楽の組み合わせに変化したからだと思われます。結局これがフォルテピアノの発明を促したとも言えるでしょう。(それ以前の教会旋法+多声音楽の世界では、こういった「表現性」はむしろ邪魔なものだったはず。)

それともうひとつ。和声進行が主体のホモホニックな音楽においては、デュナーミク(強弱)に頼れない鍵盤楽器でも「和音の厚みを変える」ことでそれを実現できる、という点も忘れてはならないポイントです。例えば、ドメニコ・スカルラッティのアッチアッカトゥーラ(不協和音も含む分厚い和音)はその極端な例とも言えるでしょう。

ところで番組ではその後、隼人クンに古楽この一曲ということでご紹介したい曲を選んでいただいた、ということで、ラモーの「新しいクラブサン曲集」 から「未開人」という曲のモダンピアノによる演奏が流れました。彼曰く、「これはソコロフの演奏がすごく好きで、生で聞いたことは1回だけパリであるんですけど、トリルがね、ものすごく美しいんですよ。その時はベートーヴェンの初期のソナタとか弾いてらしたんですけど、このラモーにおいてもそのトリル、彼の持つトリルの切れ味の良さ、美しさっていうのがね、聞いてると無茶苦茶テンション上がるんですよ」とのこと。

さて、件の演奏を初めて拝聴した亭主、たしかに超高速のトリルがビシっと決まる感じは爽快感があります。が、一方で亭主は何だかモヤモヤするものも感じました。というのも、前述のように装飾音はデュナーミクに頼れない鍵盤楽器がそれを実現するための手段だったはず。ところが、ソコロフの演奏ではそれ自体が目的となり、ピアニスティックな名人芸をひけらかすための道具と化しているようにも感じられます。

例えば「未開人」の冒頭の音のモルデント、モダンピアノ用の譜面であれば多分「スフォルツァンド」という演奏記号に対応するのではないか?にもかかわらず、ソコロフはそれをわざわざより長いトリルに置き換えて超高速で完璧に弾いて見せます。聴衆には大いに受けているようでしたが、もしラモーが生き返ってこれを耳にしたらどう感じるだろうか…(まぁ、一方でピアノはピアノで好きに弾けばよいとも思われ、そこがモヤモヤの原因でもありますが…)

ちなみに、彼の超絶トリルを使った「未開人」の演奏がYouTubeに落ちていたので、以下にリンクを置いておきます。



さて、これを聴いて皆さんはどう感じられるんでしょうね...










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Last updated  April 1, 2024 07:37:30 AM
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