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未音亭日記

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未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) tekutekuさんへ これまた情報ありがとうご…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
tekuteku@ Re:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) ジョゼフ・ペインのライナーノーツに関し…
未音亭@ Re[1]:セバスティアン・デ・アルベロ「30のソナタ」(01/15) Todorokiさんへ コメントありがとうござい…

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August 18, 2024
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カテゴリ:雑感
先週は連休に加えて職場の夏季休暇などで1週間の夏休み。始まる前には「溜まった家事雑用をカタそう」とか「断捨離しよう」などと真っ当なことを考えていましたが、連日最高気温が36℃を超える猛暑でそんな妄想はどこへやら、終わってみると冷房した部屋でノビている時間がほとんどだったという有様。(ただし、16-17日には台風からの避難も兼ねて福島の山奥にある秘湯、二岐温泉に一泊し、猛暑で疲れた体を癒してきました。)




そんな中、暇つぶしに唯一励んだのが読書ということで、表題の著作、および「道徳感情論」(アダム・スミス著、村井 章子・北川 知子 訳、日経BP)を読み耽りました。

後者は、有名な「国富論」(1776年)に先立ってアダム・スミスが1759年に出版した最初の著作で、亭主がこのところご執心のテーマ「感情」に関わる古典的な論考ともいえます。これを読まずしてヒトの「感情」は語れないだろう、とばかり今年初めに購入したものの、ずっとツン読状態だったものを、意を決して読み始めたところなかなか面白く、メモをとりながら2〜3日がかりで読了。ただし、その内容については長くなりそうなので、また日を改めてご紹介しようと思います。

ということで、今回は「エラスムス…」について忘備録を少々。

まず、著者の高階秀爾氏といえば、言わずと知れた造形美術、なかでも西洋美術史研究の泰斗で、亭主も若いことからその方面の数々の著作に親しみ、また大いに裨益されたものでした。ただ、直近で読ませていただいたのが2018年に出た「ルネッサンスの光と闇」(中公文庫)としばらくご無沙汰していたことに加え、既に御歳九十二と現役を引退されていても不思議ではないご高齢でもあり、最近書店をぶらついていて表題の本に遭遇した際には「おぉ、久々の新刊か」と思わず手に取ることに。



実際、本書は今年(2024年)1月に筑摩選書の新刊として刊行されたものですが、巻末にある著者自身のあとがきを眺めると、実は元となった文章が1971年から翌年にかけて「現代とエラスムス」という題目の下に『自由』という雑誌に連載された文章(著者が30歳代終わり頃の作)でした。

では、なぜ半世紀以上もの時を経た今になってこれらの文章が一冊にまとめられ、改めて世に問われることになったのか?

その背景としてあるのは、党派対立による社会の分断と不寛容がはびこる現在の社会状況と、エラスムスが巻き込まれた15世紀末〜16世紀前半のそれ—キリスト教会内の党派対立(ルター派対カトリック)により政治的にも分断されたヨーロッパ—とが実によく似ているという認識です。そして、筑摩選書の編集者の意図は、人々の「感情」を餌に増殖する分断と党派対立に対する唯一の解毒剤としての「理性」を擁護することにあり、そのシンボルとしてエラスムスの生き様を広く世に紹介するために高階さんの旧作を召喚した、と推察されます。

とはいうものの、そもそも美術史の少壮研究者であった当時の高階秀爾氏が、なぜ畑違いとも言えるユマニスト(人文主義者)・キリスト教神学者であるエラスムスの生涯を追いかけることになったのか?

あとがきによると、これらの文章が書かれた1971年は、著者が国立西洋美術館から東京大学の教員として転任した年だそうですが、当時の大学では依然として1960年代に燃え上がった大学紛争の余燼がまだ燻り続けていて、落ち着いて授業することさえもできず、教授会などはまともに開けないような状況でした。(少し想像を交えて補筆すれば、当時の活動家学生にとっては大学当局のやることなすことすべてが自分たちを抑圧・敵視する [=その存在を脅かす] 行為として憎悪を掻き立てたようで、授業や会議を行おうとするや否や学生らがゲバ棒持参で乱入・妨害するといったことが日常茶飯事だったようです。)

つまり、本書が読者に気づかせたいことは、16世紀初頭のヨーロッパにおける宗派間の紛争、20世紀の日本における大学紛争、および21世紀の現在における東欧あるいは中東での国家間の紛争、さらには米国における政治的対立と分断が、「感情にドライブされた党派対立」という(時代や文脈を超えた)同じ構図の繰り返しであり、それを避ける手段は「理性的な対話」しかない、ということだと思われます。

ただし、本書に描かれたエラスムスの生涯を眺めると、一度火を吹いてしまった感情的な党派対立を理性の力で抑えることは不可能に近い難事であると痛感させられます。(振り上げた拳の下ろし方は難しい…)

実際、先週のブログでもご紹介したとおり、神聖ローマ帝国皇帝カール5世も(その権勢を頼んで)両者の調停を試みたものの失敗し、それぞれの宗派に付いた王侯・貴族(世俗権力)も巻き込んだ悲惨な戦争へと拡大していった歴史も、その収拾の困難さを証拠立てていると言えます。

したがって、問題解決(=平和の実現・維持)の要は初めから「対立感情を煽らないこと」にあると思われます。特に取扱い注意なのがナショナリズム(国威発揚的)感情で、その扱いを間違えれば本物の戦争になってしまうことを我々は何度も目にしています。

例えば、先週まで開かれていたオリンピックでは、スポーツ選手が国家を代表して優勝劣敗を争うという点で、否応なしにナショナリズム感情を刺激します。各種競技の世界大会も同様のリスクをはらむことは明らかで、実際にある国同士のサッカーの試合ではその勝敗をめぐって両国間で本物の戦争に発展したことも知られています。

上記の観点から理にかなっていると思われるのは、最近の米国大統領選挙運動における民主党陣営のキャッチコピー「Trump is weird(トランプは奇妙だ)」。これは明らかに当事者としての立場から一歩下がって党派的対立の枠外に身を置く、という戦略で、これによって民主党側の候補は国民の前で理性的に振る舞う姿をアピールすることができます。亭主共にとっても、日常生活のもめごとに対処する上で大いに参考になる気がしました。






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Last updated  August 19, 2024 10:39:23 PM
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