|
カテゴリ:音楽
過日、いつものように朝食をとりながら新聞朝刊を眺めていたところ、第一面の最下段に表題ののような雑誌の広告があるのに気づきました。なにしろ1つの小さな広告枠のなかに5誌(Stereo、バンドジャーナル、ムジカノーヴァ、音楽の友、教育音楽)のタイトルが並んでいるので活字も小さく、普通なら見過ごすところでした。
古楽オタクの亭主としては、このお題を見てしまった以上、やはり何が書いてあるのか大いに気になります。そこで、近場で一番大きいと思われる書店に足を運び探したところ、幸運にもブツを見つけることができたので早速ゲット。この週末眺めてみました。 この雑誌、亭主は初めて手にしましたが、対象読者はどうやらピアノ(もちろんモダンピアノ)の学習者、およびその指導者で、街の音楽教室(ヤマハやカワイのフランチャイズ、あるいは個人経営のそれ)の生徒や先生を想定しているようです。とはいえ、内容から見て小・中学生にはやや難しいので、実材に手にしているのはもっぱら先生というところでしょうか。 というわけで、ピアノに関心がない古楽ファンにも誤解がないよう、少しお題をアレンジすると、「ピリオド楽器から考えるバロック音楽のピアノ奏法」ということだと思われます。 この問題、確かに古くて新しい問題で、20世紀後半以降にバロック以前の鍵盤音楽をピリオド楽器で弾くのが標準となって以来、楽器で棲み分けていた鍵盤楽器のレパートリーの境目が近年は溶解する傾向にあります。1990年代ぐらいからしばらくは、プロのピアニストですら録音でバッハを正面から取り上げたものが激減していましたが、最近ではバッハのみならず、クープランやラモーをピアノで弾く演奏家をざらに見るようになりました。(とはいえ、音楽教室の生徒さんが弾くのは精々バッハぐらいか?) 半世紀以上の昔、あのホロヴィッツですらもモダンピアノでドメニコ・スカルラッティをどう弾くべきか悩み、音楽学者のカークパトリックにも相談しながら試行錯誤をした結果、あの煌びやかでいて透明感ある素晴らしい演奏に辿り着いたというエピソードが思い出されます。(スカルラッティがモダンピアノのレパートリーとして早くに復活を遂げたのも彼のおかげと言えるでしょう。) ところで、実際にいくつかの特集記事を読んでみると、そこでまず語られるのは表現手段としてのピリオド楽器の魅力です。 それもそのはず、記事を提供している方々のお名前を挙げれば、武久源造、高田泰治、宮本とも子、といずれも現役のピリオド楽器鍵盤奏者。彼らが異口同音に勧めるのは、まず実際にハープシコードやクラヴィコードに触ってみることで、それによって得られる新しい感覚こそがピアノ演奏にもいろいろなヒントを与えてくれる、ということのようです。 ちなみに、特集記事ではもう一人、塚谷水無子さんというオルガニストが登場しますが、オルガンという楽器はもともとピリオドとモダンなどという区別がない、という点で特別な楽器とも言えます。いまだオルガンを触ったことがない亭主としては、彼女の記事中でオルガンの鍵盤が指にどう反応するかや、それに伴う指使い、さらには足鍵盤演奏での足使いといったルポを特に興味深く拝読。 オリガンでは鍵盤というテコの支点がちょうど黒鍵の下あたりにあるそうで、鍵盤のその部分を押さえてもうまくキーの動きが伝わらず音が出ないとか。なので、手の位置は常に指先が黒鍵より手前にあるように保持し、指遣いも古典運指(親指を潜らせたりしない)で弾くのが最も合理的ということになります。親指を使おうとするとどうしても他の指が鍵盤の奥に来てしまうので、親指を使わない古典運指はその点で至極合理的というわけです。 実はハープシコードも似たようなもので、さすがに鍵盤の支点が黒鍵の下ということはないものの、そのような奥まった位置でキーを押すとプレクトラムが弦をはじく際の抵抗が予想外に大きく、音を出し損なうことがよくあります。ハープシコードでも古典運指にメリットがある所以です。 ちなみに、特集記事の中でも特に面白かったのが宮本ともこ子さんのそれで、これを読んでいると彼女の「クラヴィコード愛」がひしひしと伝わってきます。亭主もハープシコードに興味を持って2007年に東京古楽器センターを訪ねた際、いくつか試奏させてもらった楽器の中にクラヴィコードがあり、あまりに音が小さく地味なのですぐに他の楽器へと関心が移ってしまった記憶がありますが、それはたぶん(宮本さんによれば)楽器の扱い方に亭主が無知だっただけのことのようです。 音量の問題について、宮本さんはとあるクラヴィコードの演奏会の折、途中屋外で雷鳴が轟き始めたにも関わらず、それを自分も聴衆も全くうるさいと思うことなく音楽を楽しむことができたという体験談を披露しています。 亭主の音楽室にもモダンピアノ(ヤマハC3L)とハープシコードが並んでおり、音量という点は後者はピアノの百分の1といったレベルですが、ハープシコードを弾いている間は結構な大音量に感じられます。 要するに、ヒトの耳は計測器ではなく、その感度は耳とつながった脳の集中度次第でいかようにも変わるわけで、音楽表現・享受の観点から見れば楽器の絶対的な音量は副次的な要因でしかないということだと思われます。(そういえば、グレン・グールドも自著の中で、モーツァルトのフーガの練習中、突然ピアノの傍で掃除機の大騒音が鳴はじめたものの、そのノイズにかき消されてしまったピアノの音が、掃除機が鳴り出す以前よりもよい響きになったというようなエピソードを語っています。) とはいえ、亭主はこのところピアノに触るたびに「ピアノは超難しい!」という思いに駆られます。ピリオド楽器など見たことも聞いたこともなかった大昔には、今とは全く違った感覚でピアノを弾いていたことを思えば、まさにハープシコードの演奏体験がピアノという楽器への認識を大転換させたというわけです。 現状ではハープシコードがモダンピアノのように普及することは望むべくもありませんが、せめて音楽教室に1台クラヴィコードがあるような世界になれば音楽教育も格段に変わるのではないか、と妄想する亭主でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 29, 2024 10:00:08 PM
コメント(0) | コメントを書く
[音楽] カテゴリの最新記事
|