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カテゴリ:音楽
ドメニコ・スカルラッティの「クラヴィア練習曲集(Essercizi per Gravicembalo)」1739年にロンドンで出版されましたが、その冒頭部分にある献辞と序文は、彼が自身の言葉で語った数少ない記録と思われています。献辞の方は「サンチャゴ騎士団」の勲章を授かったポルトガル王ジョアン5世への大仰な賛辞で埋め尽くされていますが、それに続いて以下のような砕けた序文が記されています。
「読者諸氏、「練習曲集」が出版された18世紀中頃といえば、普通に考えればまだ「アンシャン・レジーム(旧体制)」真っ只中です(後に「ブルジョワの世紀」と呼ばれるようになるのは19世紀)。なので、亭主からみると音楽を庇護・享受しているのはもっぱら王侯貴族のように思われ、ドメニコがなぜ(献辞の対象以外の)広い読者を対象として出版したのか、あまりピンと来ていませんでした。 ところが、以前にもご紹介したボジャンキーノの本を眺めると、この時代すでに初期段階にあった産業革命の恩恵を受け始めた商工業者(ブルジョワジー)が社会階級として一定の地位を持ち始め、彼らが音楽の担い手として登場していたことが書かれています。 …この時代には、善と快楽がしばしば結びついた。芸術でさえ、快楽を追求することで道徳的使命を果たしたのである。より純粋なバロック芸術が、古典芸術が浸透していなかった社会階層に信奉者を求め、プロパガンダを目的として、伝統と権威に忠実であり続けるよう大衆の大部分を説得しようと努めたのに対し、準ブルジョア的なバロック、あるいは「ロココ」時代の新しく勇壮な様式は、一方では宮廷、他方では中産階級が示す限界の中で進行した。中産階級は経済的な階級へと成長し、「前進する」ことで、趣味と文化の両方を新たな道へと導く能力を証明した。言い換えれば、芸術を育てる者の数が増え、傍観者の数が減ったのである。この引用の中で「ナントの勅令と寛容法が撤回されたこの時代」とありますが、これは1685年、ルイ14世がフォンテーヌブローの勅令によりこの勅令を廃止し、カトリック中心の権威主義的な国家へと逆戻りさせたことを指しています。 亭主も含め、「ナントの勅令?何それ?」という読者のために復習すると、16世紀フランスではキリスト教新旧両派の宗教戦争(ユグノー戦争)が戦われており、長年に渡り(〜40年)内戦状態でした。当時の王アンリ4世は、事態を収拾するために自身がカトリックからプロテスタントに改宗するとともに、ユグノーなどの信徒に対してカトリック信徒とほぼ同じ権利を与え、信仰の自由を認めることを布告(1598年)、これによって内戦を終結させ、国家的統一を果たすとともに、フランスを絶対王政下の繁栄へと導いたと言われています。 ところが、「太陽王」ルイはなんとこの勅令を廃止し、カトリック以外の信徒を弾圧し始めます。その結果、プロテスタント信徒の大半はオランダなどの国外へ逃れ、商工業の担い手を失ったフランスの衰退を招くことになったというわけで、後知恵で言えばルイ14世もずいぶんと愚かな決断をしたものです。(その影響はおそらく現代までも続いていると言えるかも?)「不穏で根深い矛盾」とは、いわば「権威主義対自由主義」のそれを指しているとも言えます。 1685年といえば、くしくもヘンデル・バッハ・スカルラッティ生誕の年。この勅令廃止は、後に回り回って音楽界にも大きなインパクトをもたらします。 話を音楽出版に戻すと、楽譜の印刷出版が始まったのは15世紀半ばのヴェネチアと言われ、グーテンベルグの活版印刷(活字)を応用してのものでした。ところが、この手法では五線と音符・記号を綺麗に並べることが難しく(線が途中で途切れる/ガタつく)、文字だけの印刷に比べて大変に手間暇がかかる上に誤植のリスクもあるなど、手写譜に取って代わるには至らなかったと言われています。とはいえ、後にはヴェネチアのオッタヴィアーノ・ペトルッチが五線、音符、歌詞と記号を別の版で刷るという3度刷りの技法を発明したことで大きく改善され、さらにフランスのピエール・アテニャンといった印刷師が線と音符を同時に印刷する方法を開発、普及させました。 ところが、16世紀末に用いられ始めた銅版印刷がこの状況をさらに大きく変えます。初めはエッチングでしたが、1613年にはウィリアム・ホールによって銅板をビュランで彫刻することで楽譜の浄書が行われます。ビュランによる銅版画は当時から絵画の複製などにも使われるほどですから仕上がりが美しく、またある程度の量の印刷にも耐える手法でした。とはいえ銅板は高価で、後で修正が効かないなど扱いが難しく、彫刻にも高度な技術と長い時間を要したため、17世紀末頃からは銅版の代わりに安価で加工しやすい「しろめ」(スズ、鉛などから作られた合金=ピューター)が使われるようになりました。これで職人芸が必要なのは版刻だけになり、出版市場への柔軟な対応が取れるようになったというわけです。 そして、この頃に頭角を表したのがヴィヴァルディの「調和の霊感」を出版したアムステルダムのエティエンヌ・ロジェ(1664-1722)という出版業者でした。ロジェはもともとフランス・ノルマンディー地方のカーン出身のユグノー教徒でしたが、ナントの勅令廃止を受けてオランダに亡命し、その下で見習いをしていた業者と共同で1695年に出版事業を始めます。彼はしろめを用いた最新の印刷技術を用い、ヨーロッパ各地に代理人を置いて広告を打つなど営業にも励み、商業的に大きな成功を収めます。ウィキによると「1716年の最後のカタログでは楽譜の数が585に達し、ロジェの会社はロンドンのウオルシュ、パリのル・クレールと並ぶヨーロッパの楽譜出版の主流となった」とあります。 ちなみに版刻に職人技を要するという問題を解決したのは、1720年にジョン・クリューアーが開発した方式で、音符などは硬い金属でできた活字を打ち付けることで板に窪みをつけ、五線やタイなどの曲線を針状のもので彫るというもの。これによって、音部記号や音符の形状が統一され、整然とした刷り上がりが保証されるようになったとのこと。 亭主が持っているEsserciziのファクシミリ版も、形の揃った丸い音符が並んでいて大変読みやすい譜面なので、多分この技法で印刷されたと想像されます。 ところで、「調和の霊感」が出版されたのは1711年。セバスティアン・バッハの雇い主だったドイツ・ワイマール公国のエルンスト公子がオランダ留学(1711-1713年)の最後にロジェの店に寄って「調和の霊感」の楽譜を買い求め、帰国後にオルガンやチェンバロへの編曲を彼に依頼した話はつとに知られている通りです。 このエピソードからは、出版譜の購入層として依然として音楽好きの王侯貴族がかなりのウェイトを占めていたことが想像できます。一方で、17世紀以前のイタリアの出版社は国境を超えての販路を持っていなかったようで、この時代に市場がヨーロッパ全土に広がったこと(今でいうグローバル化)が楽譜出版ビジネスの興隆に繋がったと言えそうです。 というわけで、最初の疑問には結局答えが出ませんでしたが、もしかするとドメニコは商売上手なロンドンの出版業者にうまく丸め込まれただけ、ということかも お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 14, 2024 09:57:38 PM
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