トゥイードルダムとトゥイードルディ
18世紀前半におけるロンドンでのオペラシーンを語る上で、ヘンデルのライバルとして必ず取り上げられる音楽家の一人がジョバンニ=バッティスタ・ボノンチーニ(1670-1747)です。ボノンチーニは例によってボローニャで音楽を家業とする音楽一家の出で、若い頃からローマ、ベネチア、ウィーン、ベルリンとヨーロッパの主要な都市でチェリスト兼作曲家として活躍していたようです。1710年ごろにはオペラ作曲家としての評判がロンドンにも伝わり、それもあってか1720年、英国マールバラ公ジョン・チャーチルの誘いを受けてロンドンを訪れることに。 ちなみに、このマールバラ公はあのウィンストン・チャーチルやダイアナ妃のご先祖に当たり、政治的にはホイッグ党に属していた(自身も英国国教会信者)ようです。一方、ヘンデルのパトロンであった国王ジョージI世はトーリー党(カトリック容認派)をその支持基盤としており、自らの意思とは無関係にヘンデル共々両者間の党派争いに巻き込まれることになったのではないかとも想像されます。(それにしてもこの当時の英国の政治状況というのは実に込み入っていて、何度資料を読み返してもスッキリ頭に入りません。) さて、到着したロンドンでは既にヘンデルが大いに人気を博していましたが、ボノンチーニは(年の功もあってか)臆することなく自身の音楽活動を始めます。そうして1722年に例のウォルシュ社から出版したのがDivertimenti di Cameraという合奏曲集でした。ひょんなことからこれを元にしたハープシコード曲集を録音した新譜CDがある、ということを知った亭主、早速その中身を確認すべく落手しました。 CDのライナーノートによると、原曲は通奏低音とリコーダー、あるいはヴァイオリンによる合奏曲だったようで、人気が出たこともあってそれをハープシコード用に編曲したものが再びウォルシュから出版されたとのこと。残念ながらハープシコード版の編曲者が誰だったかは詳らかになっていないようですが、もともと2声部だったことを考えると原曲の雰囲気をよく伝えているものと想像されます。 この曲集、一聴しての印象は、やはりヘンデルのハープシコード作品に似ている部分が多々あるな、というもの。ヘンデルの最初のハープシコード組曲集は1720年に出版されており、ボノンチーニもそれを知っていたと想像されますので、この類似は偶然ではないでしょう。(例えば、ライナーノートにも指摘されているように、第1番ハ長調の4楽章は、ヘンデルによる1720年の組曲集中の第2番ヘ長調の4楽章と鏡像のような関係に見えます。)その点、以前にこのブログでご紹介したジャン=バティスト・ルイエのハープシコード曲集とも通底するものがあります。ロンドンでは スカルラッティの「練習曲集」が出版された1738年以降、「スカルラッティ風」が大流行しますが(相前後して同じことがパリでも起きます)、それ以前には「ヘンデル風」が大いに流行していたらしいことが読み取れます。 ところで、ロンドンで知らない者がいなかったこの2人のライバル関係を風刺するエピグラムとして有名になったのが、英国の詩人ジョン・バイラムによるそれで、日本語のウィキペディアにも紹介されています。引用すると、 Some say, compar'd to Bononcini That Mynheer Handel's but a Ninny Others aver, that he to Handel Is scarcely fit to hold a Candle Strange all this Difference should be 'Twixt Tweedle-dum and Tweedle-dee![4] ある者は言う、ボノンチーニに比べれば ヘンデルなどはただの間抜けだと 他の人は断ずる、ヘンデルに比べれば 奴などは燭台持ちがせいぜいだと おかしなことだ、こんな言い争いはすべて トゥイードルダムとトゥイードルディーの争いだろうに!ここで登場するトゥイードルダムとトゥイードルディー、元はイギリス童謡に由来するとされており、亭主もルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」の登場人物(?)として知っていましたが、実は印刷された文章として残っているのはこのバイラムのものが最も古いもののようです。ところが、亭主が驚いたことにはこのバイラムのエピグラム、CDのライナーノートの引用とはどうも真逆になっているように見えます。具体的には、Some say, that Signor Bononcini,Compared to Handel's a mere ninny;Others aver, to him, that HandelIs scarcely fit to hold a candle.Strange! that such high dispute should be'Twixt Tweedledum and Tweedledee.とあり、こちらのバージョンでは「間抜け」なのはボノンチーニの方で、燭台持ち以下なのがヘンデル、というわけです。一体どういうことなのかと思い、さらにネット上を調べていると、英語のWikiquoteというサイトでこのバージョンが紹介されているのを発見。単なる「間違い」ではなさそうです。さて、しばらく沈思黙考した亭主、「ハァ〜ン…これはこのエピグラム自体をトゥイードルダムとトゥイードルディーに仕立てるためのメタ操作だな!」と勝手にガッテン。それにしても、この2人のライバル関係、いかに当時のロンドンで関心の的だったか、さらには英国人のこういった党派争い好きが、彼らに宿痾のように染み付いていたことがよくわかるエピソードでした。