|
カテゴリ:読書・映画
新潮文庫「新編 銀河鉄道の夜」に収録されている賢治の童話作品。 未完の作品であり、また賢治作品の中ではマイナーな部類に属するが、私にとってはとても感慨深い、大切な物語だ。 (以下、ネタバレありです) 「私」の町にある博物館のガラス戸棚には、蜂雀の剥製が陳列されている。 そのなかの一匹をたいそう気にいっていたのだが、ある日、その蜂雀が「私」に語りかけてくる。 ///////////////// (ここから引用) 「お早う。ペムペルという子はほんとうにいい子だったのにかあいそうなことをした。」 ・・・ 蜂雀がガラスの向うで又云いました。 「ええお早うよ。妹のネリという子もほんとうにかあいらしいいい子だったのにかあいそうだなあ。」 「どうしたていうの話しておくれ。」 「話してあげるからおまえは鞄を床におろしてその上にお座り。」 (ここまで引用) //////////////// こうして剥製の蜂雀は、可愛いペムペルとネリの話しを始めた。しかし、何がどうかわいそうだったかを語る前に、蜂雀はぴたりと話しを止めてしまう。 「私」が泣きじゃくって頼んだり、番人のおじいさんが嗜めたりした末にようやく話を続けるくだりが非常に印象的であり、その情景がありありと浮かんでくる。 //////////////// (ここから引用) ・・とうとう私は居たたまらなくなりました。私は立ってガラスの前に歩いて行って両手をガラスにかけて中の蜂雀に云いました。 「ね、蜂雀、そのペムペルとネリちゃんとがそれから一体どうなったの、どうしたって云うの、ね、蜂雀、話してお呉れ。」 けれども蜂雀はやっぱりじっとその細いくちばしを尖らしたまま向うの四十雀の方を見たっきり二度と私に答えようともしませんでした。 「ね、蜂雀、談してお呉れ。だめだい半分ぐらい云っておいていけないったら蜂雀 ね。談してお呉れ。そら、さっきの続きをさ。どうして話して呉れないの。」 ・・・私はとうとう泣きだしました。 (ここまで引用) ///////////////////// 「だめだい半分ぐらい云っておいていけないったら」という、「私」のセリフが実に健気で美しい。 ペムペリとネリは土と共に生きる純朴な生活を、サーカスは計算と享楽に満ちた世間を表しているのだろうか。この子供たちの悲劇は、貨幣経済の論理によって疎外されていく一切の大人の悲劇でもあるのだなあ・・などと月並みなことも思ったのだが、この物語の全体を包む深い、静かな悲しさの主役は、二人の幼子ではなく、「ペムペルとネリはかあいそうだなあ」と繰り返す蜂雀であるようにも感じられてくる。 すでに生命を喪失し、亡骸だけをガラスケースに「陳列」され「管理」されながら、なおも悲しい追憶の語り手であろうとする蜂雀。 活きた鳥は死の可能性を内包しているが、この蜂雀は死と生の同時並存のなかに活動している。 時間、空間、因果率を超越した世界の中にも、悲しみや慈しみ、あるいはそれらを包摂した一種の意思が存在しているのだろう。 蜂雀をいったん黙らせ、死の世界へ戻したことがこの作品の決定的なポイントであり、いっそう重層的な味わいを加えた。 でも、ベムペルとネリはほんとうにかわいそうだなあ。 フジポット文庫で、奥寺健アナウンサーの朗読をじっくりとご鑑賞ください。 http://fujitv.cocolog-nifty.com/bunko/2009/07/post-8a8d.html http://fujitv.cocolog-nifty.com/bunko/2009/08/post-baae.html お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Aug 18, 2009 05:40:48 AM
コメント(0) | コメントを書く
[読書・映画] カテゴリの最新記事
|