やがて鳴る鐘の為に
「若者よ、書物を捨てて、街へ出よ」とは、詩人・寺山修司の有名な言葉だが、21世紀のある日にぼくが初めてこの言葉を聴いた時には、世の中の若者は、若い僕を含めも既に誰も書物を持っていなかった。本を読むという地味で、個人主義的かつ孤独な行為の効率の悪さに、やっと若者たちが気づいたと言うべきかも知れない。もっとも、村上春樹の時代までは、若者が文学書をせっせと読めばそこに女の子が近づいてきて、「難しそうな本を読んでるわね」と声をかけてくれたらしい(そうと彼は書いている)。さすが前世紀の話だ。この間、このブログに「最近ヒマすぎて勉強してる」と書いたら、何人かの人に心配された。「ヒマだから勉強しようなんて、すごいね」とも言われた。でもそれは全く違う。「やっぱり勉強しよう」となるまでには、本当に長い長い「ヒマ」な時間があったのだ。一年ぐらい前から司法試験の予備校に通っていたが、口を開けば「択一が・・・、論文が・・・」で、そのくせ弁護士になってからの展望を全く持たない人々の雰囲気に耐えられなくなってほぼ「中退」した。学校にもあまり行かなかった。全ての授業が600人で行われ、誰一人として「不必要な」会話を交わさない、ゼミの討論のような対話すらない(そもそもゼミが無いのだ)、すれ違う人々が皆疲れた目をしている暗い教室に行く気がしなかった。あらゆる本を読むのを止めた。毎日ネットとテレビを見て寝ていた。喫茶店で一人ぼーとしていた。ファミレスで友達と朝までグチっていた。街を夜通しあてもなくふらついた。おかげで起きるのが午後三時ぐらいになった。ヒキコモリだったかといえば、少し違う。モチベーションはみなぎっていた。毎日毎日何か楽しい事が起こらないか、全てを開く鍵が落ちてないかを、それこそバカみたいに期待してた。夜になると、明日こそは何かあるかもと、あれこれ考えて眠れなかったぐらいだ。でももちろん、何も起こらなかった。現実はマンガや小説と違って、何もしなくてもある日突然ふらっと何かが起きたりはしない。大抵目が覚めるともう午後で、ごはんを食べ、二度寝して、しばらくボーとしてるともう空は暗くなって、また一日が終わろうとしていた。ひたすら退屈な時間を過ごした後に、やっと一つのことをあきらめたかのように悟った。宿命なんてものは信じないけど、人には自分の道があり、そこからはみ出して、ましてや苦労する覚悟もないくせにただはみ出そうとしても、本当にただの虚無しかそこにはない。ということを。昔から勉強は好きじゃなかった。浪人していた頃から一人暮らしをしていたけど、あまりにも予備校をさぼるから塾から親に何度も連絡が行ってそのたびに悲しまれたぐらいだ。バンドが組めたらきっと組んでいただろう。しかし音楽が好きでも、楽器はできない。いきなり「ボーカルにしてくれ」と言うほど歌唱力も無い。スポーツだって見るのは大好きだったけど、何かに活躍できるほど運動神経は良くなかった。「ウキウキキャンパスライフ」を夢見て大学に入っても、待っているのは「法学部砂漠」と形容されるような、最後に女の子と話したのは3ヶ月前とか、そんなのが平気の生活。サークルに入ろうと思うと、おかしなことに(ある意味とても合理的なことかもしれないけど)途中からだと男は絶対に入れてくれなかった。全てが味気なく継続反復する生活、友達とファミレスで朝までグチッていたのは、そういうことだ。しかし、その中である日に学校行くと、もはや周り全員の話についていけない事が分かった。みんなすっかり法律への理解を深めていて、口々に僕の分からない用語を話していた。三年生にもかかわらず既に択一を合格している人までいた。そういうことを知った瞬間にぼくはなぜかすごく悔しかったのだ。何故だろう?自分はそういう、試験で高い点数を取ることを至上命題とするマシーンたちを、鼻で嘲笑しながらそのたまり場から去ったのではないのか。でも、認めなくてはならないことは、少なくともぼくは「ヒマ」な時間を通じてそれを乗り越える何かを構築する事はできなかった。みんなが教室に本に机に向かっている時に、ぼくはそれを揚棄したつもりで、ただの虚無をすごしていたのだ。確かに、彼らの、時にしてあまりにも功利主義的で、ひたすら効率重視のやり方に対しては未だに反感を持つし、それが間違っているとは思わない。でもそれを今の無知で怠惰な僕が言ったところで、何の説得力があるだろう?言葉が全ての人に対して平等だというは、嘘だ。例えば1+1=2のような、世の中のあらゆる体系に通用する言葉もあるが、ある種の人にしか口にできない、逆にある種の人には決して口にしてはならない言葉が確実に存在する。殺人罪犯人の父親が「罪を憎んで人を憎まずですよ」とは決して言えない。サッカーの出来ない人が、サッカー選手に「サッカーってくだらないよな」と言ったところで、ただの僻みではないのか。それと同様に、ぼくの言葉が説得力を持つには、その対象を乗り越えていなければならない。そうでなければ、ただの昔の社会党のような弱者根性だ。そんなんじゃ納得が出来ない。と思った時机に向かった。その体系を否定するためにだ。盗んだ銃は、いつか鮮血に染めてから返そう。それは毎日少しずつではあるが、今まで続いている。あいかわらず、劇的なことは何もおこらない。毎日昼過ぎに眠い目をこすって起きては、テレビや雑誌では若者たちが楽しそうに街へ、花火へ、海へ、遊園地、外国へ出かけてゆくのを横目で見ながら、全くやる気の無い勉強をいやいやしている。それでもつらい数時間を過ごした後には、頭の中に何かが残っているのは確かだ。そして充実感がある、不思議な事に、当たり前なことに。何か新しい生きがいが見つかればすぐにそちらへ向かうが、見つからないうちは結局少しずつ、身の回りからできることを少しずつやっていくしかない。きっとやっていくうちに何かが蓄積されていき、そしていつかそれが意味を持つことを信じて。かつて、スマップに「俺たちに明日はある」という曲があって、その中で「薔薇の花束が似合う人もいるのさ、だけど似合わない、転がるように生きて・・・」という歌詞がある。歌っているのがスマップという点でムカつくが、その部分は間違っていない。バンドマンやイケメンテニサー・サーファーは、華やかだしモテモテだしうらやましいけど、恐らくそういうカッコ良さを自分は持つことができないだろう。でも、こういってはなんだけど、ぼくは自分にもささやかな才能があると信じたい。信じてないとやっていられないという面もあるし、時々「今いい感じで頭が切れてるぞ」と心地よい刺激があるのも事実だ。だとすれば、それを最大限に伸ばす事が、今のぼくが出来るせめてものカッコイイ生き方ではないのか。かのフリッパーズギターは、青春を「Young,Alive,in Love」と定義したが、22歳の僕は、やがて迫り来るだろう、青春の終わりを告げる鐘の音をひしひし身に感じている。もはや無駄なヒマを過ごしてる場合じゃない。この夏が終わる頃には、もう少し中身のある人間になれていたらいいな。