真実の口のすぐ横、
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会を正面にして左手に、
ちょっと奥まった小道があります。
観光客の方は気付かないかもしれません。
現在、ローマ・オペラ座の衣裳倉庫がそこにはあります。1931年この倉庫の建築のために一帯を掘って発見されたのは、
ミトラ教の集会場の遺跡でした。
ローマ市がここ数日開催しているROMA NASCOSTAのイベント初日、
このミトラ教遺跡をガイドさんの説明付きで見学してきました。
この遺跡は通常、人数限定ではありますが、
公開している日が多いです。
ただ、必ず土曜日の午前中に行われるので、
わたしはいつも仕事のため参加できず、悔しい思いをしていました。
それをやっと見ることができたのです。
このあたりは畜牛市が行われる広場と
数々の神殿が密集していたところで、
今でも市の戸籍課の建物の前のペトロセッリ通りを歩けば、
2000年前を容易に想像することができます。
一番有名なのはヘラクレスの大神殿で、
サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の場所にあったとされています。
さて、わたしはミトラ教遺跡を見に、
地下14メートルの所へ降りていくことにします。
現在は2世紀に煉瓦で造られた5つの部屋が発掘されており、
一番手前の部屋はチルコ・マッシモ(古代競技場)の
競走馬出発地点の柵部分に隣接していることになります。
これが3世紀にミトラ教の秘密集会場として利用されていました。
ミトラ教というのは3~4世紀にローマ帝国において
軍人を中心に広まった
インド及びペルシア(現在のイラン)起源の宗教で、
信仰は男性に限られる、饗宴集会を行う、牛を生け贄にする、
水に浸かって洗礼を行う、などの特徴があります。
3~4世紀といえば教会も多くできるなど
キリスト教ももちろん既に広まっていました。
しかし360~363年のローマ皇帝ユリアヌスは、
313年に義父であるコンスタンティヌス帝が
キリスト教を公認したにもかかわらず
ミトラ教を復活させようとしました。
現在ユリアヌス帝が「背教者」というあだなで有名なのはこのためです。
皇帝が支持するほど広まっていたミトラ教。
その後382年に完全に禁止されてしまい、忘れ去られ、
それゆえ現在謎も多く、「秘密宗教」と言われていますが、
本当はどんなものだったのでしょう。
わたしはサンタ・プリスカ教会地下、
サント・ステファノ・ロトンド教会地下などの
ミトラ教遺跡を今まで見てきました。
ローマで一番有名なのはサン・クレメンテ教会の地下遺跡です。
まだ行ったことがありません…。
ミトラ教研究者(←嘘)失格です。
他にもバルベリーニ宮殿地下、カラカラ浴場地下にもありますが、
これらは滅多に入れないと思います。
見たことがある方のレポート、お待ちしております。
昨日見たミトラ教遺跡に話を戻します。
一番驚くのは大きなミトラ神の大理石のレリーフで、
ミトラ神が雄牛を刀で刺している様子が描かれています。
左側に太陽とカウテス神、右側に月とカウトパテス神。これお決まり。
牛から流れている血を犬と蛇がすすっており、
サソリが牛の大事なところを挟んでます。痛っ!
牛の尻尾は小麦の穂に変わり、それをカラスが見ている…。
そんでもってミトラ神、牛を背負ってえっちらほっちら歩いてる…っていう
ちょっと漫画チックな気がしないでもないレリーフ。
ここで信者の男たちは牛の血を見、洗礼をし、
横になって飲み食いしながら何を語っていたのでしょう。
ローマ帝国とキリスト教、ミトラ教。
まだまだ勉強の余地があります。
残念ながらローマ帝国におけるミトラ教について
日本語で書かれた、日本語に翻訳された本が出ていないので、
わたしもあまり知識がありません。
詳しい方は教えて下さい。
ミトラ教遺跡は、ローマ市内の他に
オスティア・アンティーカでも見ることができます。