職場の隣のBARがとうとう閉店してしまいました。BAR(バール)は日本語で言うと喫茶店?
コーヒーが主ですけれどお酒や軽食も出しますし、
タバコや飴やチョコレートも売っている、便利屋さんです。
コーヒー(エスプレッソ)を飲まずにはいられないイタリア人にとっては
みんなそれぞれ馴染みのBARというのがあると思います。
ここはもともと賃貸で、ヴェネリーナという名前の
太っちょ母ちゃんのいる家族が営業していたのですが、
この一家が今や同じ地区に同名のレストランを二軒出して、
手が回らなくなり、営業権を譲っていたのです。
まず引き継いだのはウチの会社の元同僚フランチェスコ。
彼の家族がやっていたのはそれほど長くはありませんでしたが、
その後にロムーショ一家が来て、数年。
ヴェネリーナの名前を残したままずっとやっていたものの、
とうとうBAR自体を辞めることになりました。
わたしは2002年12月に今の職場で働き始めてから
9年とちょっと、元祖ヴェネリーナの時代から3代。
コーヒー豆は変わっても、
ずっとここのカップッチーノで一日を始めていたのです。
本当に悲しいです。
以前はバスのチケットも売っていたし、
公共料金の振り込みもできたので、
ガス代をここで払っていました。
生活の大部分がここでした。
晴れの日も雨の日も、嬉しい日も悲しい日も、
ボンジョルノと言って店に入りました。
何も言わなくてもそれだけで、
わたしの好きなクロワッサンとカップッチーノが出てくるのです。
去年の今頃はさすがに「ボンジョルノ」と元気に言えなかったけれど、
みんながわたしを見ると日本のことを心配してくれていました。
同僚たちと抜け出してコーヒーを飲みながら職場の悪口を言ったり、
友達やお客さんを連れて行ったこともありました。
同じくここを常連としている裏のスーパーの店員たちなど、
近所で働いている人たちとも井戸端会議をよくしたものです。
フリマのお客さんに「あのBARにいつもいる子でしょ」と
言われたこともありました。
唯一ツケが利く店でした。
週に何度かはお昼もここで食べました。
わたしの胃袋の何割かがここでした。
最後の経営者だったロムーショ一家は
お父さんとお母さんと子供3人。
一番下のアリーチェはまだ高校生なので土曜日にしか来ないけれど、
お姉さんのフランチェスカと真ん中のフェデリコ(アニメおたく)は日本贔屓で、
プライベートでも遊んだりしました。
イナゴを食べる激ショートカット時代のフランチェスカ
おいしいカップッチーノを入れてくれていたのは従兄のレナート。
遠くに住んでいるのにフリマにもわざわざ遊びに来てくれる
とても親切な一家です。
いつだかの誕生日には
お父さんとお母さんが花束をプレゼントしてくれました。
本当に本当にさみしくなります。最後の日にはフェデリコ・プレゼンツで、
何でもお酒ワンショット1ユーロという企画をやりました。
飲めないわたしもミルトを飲みました。
リモンチェッロなどの甘い食後酒はほんの少しですが
おいしいと思えるのです。
40度くらいあるのでもちろん舐めるだけですよ。
イタリアにはこうした昔ながらの馴染みの店が多いので、
新しい店を馴染みにするのに(少なくともわたしは)勇気が要ります。
日本では別にどこのドトールに入るのにも
勇気なんか要りませんけれど。
一応、角を曲がったところにあるソルパッソを
わたしの新しいお店としましたが、
欲しい物は言わないと出てこないし、
悩みを打ち明けたりする相手もいなそうです。
ヴェネリーナ以上のBARはわたしには見付からないな、と思います。
BARヴェネリーナ長い間どうもありがとう。
BARヴェネリーナは改装して
元祖ヴェネリーナ家族の三軒目のレストランとなる予定です。
去年彼女のご主人、
わたしをよくからかって喜んでいたペッペじいさんが亡くなって
さみしくなったこの家族。
プラーティ地区で頑張って儲けて手広くやっています。