分かりたい。
何かが「分かる」とは、どういう状態を言うんでしょ。「知っている」じゃなくて、「分かる」ね。「理解」という言葉に置き換えることも、できます。僕だって一応23年間は生きてるんだから「昔分からなかったこと」の数パーセントくらい分かったっていい頃なのに「わかったこと」ってなんだろうな~と、首を傾げてしまうのです。そりゃね、「知ってること」は増えてるんですよ。前は、「知ること」=「分かること」だと思ってたんです。でもね、いくら知っても、いや、知れば知るほど、「分かる」の底は深いな~と。地平線にたどり着きたくて歩いてる旅人みたいな感じでね。歩けば歩くほど遠ざかるような感じでね。多分ね、ある一つのことを「知る」ことで「分からない」もう一つのことに気付くんですよ。「知ること」の副産物として「謎の発見」があるわけで。ある意味、学習の本質ってのは、「分からないこと」に気付くことなのかもしれない。何が言いたかったかというと、好きな人がいるわけですよ。でね、その人を大切にすることについて、考えていたんです。「理解」ってのは、「愛」を具体的な行動に落とし込んだ作業なんじゃないかと思って。だから、「分かる」ってことについて、考えていたんです。今のところの結論としては、「理解」は完結しないんだなあと。「分かる」「分からない」よりも、「分かりたい」が大事なんだなあと。気長に、現在進行形で、行ってみようかなあと。その人と出会って2ヶ月くらい。その人が生まれて22年くらい。約21年と10ヶ月分、僕はその人のことを知らないんだから。もっと言えば、その人の中にある色んな遺伝が伝わってきた道のりを考えると何百年、もしかしたら何千年。一人のひとを知ろうとする試みの中で、悠久の時間と出会ったりする。きっと、途方に暮れるんだろうなあ。うん、一歩ずつ歩けばいいや。“If there is understanding, there is love. If there is no understanding, there is only an endless stream of questions”(理解があれば愛がある。理解がなければ終わりのない疑問が繰り返されるだけ。) ~NYのタクシードライバーの言葉~