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カテゴリ:視・紙・誌面から
すでにあれから28年経ったかと思う。6時前に目を覚まし、ベッドから起き上がった時に「ゴー」という音が聞こえ、いきなり家が揺れ始めた。ミシミシと、それは長い時間に感じた。揺れが収まって1階に降りてみると、食事の用意をしていた女房が、「危ないと思ってストーブを消そうとしたけど動けなかった」という。テレビをつけると、大阪や京都は震度が出ているのに、神戸がない。「神戸がやられたな」
わが家は神戸から80kmばかり離れている。電気も電話も大丈夫だ。西宮に住んでいる妹が気になり、父が電話したがすでに不通だった。あとで聞けば、戸棚のものがすべて飛び出し、足の踏み場もなく、運動靴に履き替えたと言う。同じ兵庫県でも明石を境に無事なところと被災地が二分された。 当時食品会社に勤めていた私は、定時に出勤〔歩いても30分はかからない〕して、「早くこんか!」と叱られた。工場では積み上げた瓶が倒れて散乱していた。救援のタンクローリーに水を積み込み、送り出したが、帰ってきたのは夜遅く、まだ受け入れ態勢も不十分だったと言う。10時ごろから「火が出てるわ」と事務所のTVはつけっぱなしになった。道路もずたずた、土地勘のあるものでもなかなかルートを見つけられない。トラック同士の会話が情報源と言う時代だった。会社所有の携帯電話を持って行ったが、当時は高かったはず。 神戸はいわゆるライフライン、水・ガス・電気がすべて止まり、またいつ復旧させるのか見当がつかない状態。神戸営業所も被災した。神戸市の中でも何とか使えるところはあったので、一時は事務所の取り合いになったそうだ。山陽本線もとまり、物流も人の流れも大混乱、新幹線も橋桁が落ちたくらいで済んだのが奇跡だ。まだ本格的にうごく時間でなく、もしもう少し遅かったら大惨事になっていただろう。 そしてこの震災をきっかけに普及したのが、ボランティア、携帯電話、防災だったと思う。幸いに大阪も姫路もほぼ無傷だったので近くからの支援は出来た。また、被災地の住民が大阪に行って「普通に生活してるやん。うそみたい」とも感じたようだ。わが田舎町からも電池、カップラーメン、水パックが消えた。でも「あたりまえやわな」と騒ぎにはならなかった。うちは井戸水でもしのげるのだった。電気がないと困るが、息子は「うちも発電機買っといたら?」未だ買っていないが、地震は明日来るかも知れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023年01月18日 19時14分14秒
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