阪神・淡路大震災から16年が経とうとしている。
いつまでも地震の事を、と言う声も聞こえてきそうな気もする。
去年は15年目という節目で、秀逸なドラマもあったけれど、
今年は特番の数も少ない気がする。
こうやって風化していくのかな。
風化させたくないから自分の想いを書き留めておきます。
被災地では、昔の事を思い出して話す時、
「震災前」「震災後」 と、 震災で時の区切りをつける。
それは、「終戦前」 「終戦後」と同じような感じだ。
私は長い間神戸に住んでいたけれど、事情があって震災の4年前に神戸を離れた。
大好きな街だった。死ぬまで神戸に居ようと思っていた。
絶対、離れたくなかった。 でも、どうしようもなかった。
胸が引き裂かれる想いだったけど、
「神戸が消えて無くなる訳ではない、
いつか自分の力で必ず戻ってみせる」 と自分を励ました。
震災の時、私は大阪の豊中市に住んでいた。
激しい揺れに飛び起きたけれど、食器が落ちて割れた程度で、
「大阪でこんなに揺れたんなら、東京はもっと大変な事になっている」と、
関東が震源地に違いないと思い込んだ。
それほど、「関西には地震は来ない」 と関西人は思い込んでいたと思う。
「神戸が。。。」
時間の経過と共に次から次へと映し出される、神戸の惨状に声も亡くした。
「神戸が消えて無くなる訳ではない」 と自分に言い聞かせていたけれど、
神戸は消えて無くなろうとしている。
伊丹の実家は一部損壊程度で済んだので、
2週間後に、当時2才になったばかりだった娘を母に預け、
リュックにレトルトカレーやウエットティッシュを詰め込んで、
友達の沢山居る、神戸に向かった。
阪神電車に乗り、武庫川を渡ったあたりから様相は一変していた。
電車には沢山の人が乗っていたけれど、静まり返っていた。
誰もが息を飲み込み、涙ぐんだり、溜息をついていた。
まだ青木駅までしか電車は運行しておらず、
私は深江で被災した友達と、そこから三宮まで歩くことになった。
歩きながら見た光景は、歩くうちに現実感が薄れていくほどで、
まるで何か、映画のセットでも見ているような感覚に襲われた。
音のない世界の中で、被災した人々がもくもくと瓦礫になった家を片付けていた。
何もかもがスローモーションで、時が止まったような感覚。
三宮への途中で、自分が住んでいた街も歩いた。
私が住んでいたマンションは外から見る限りではしっかり建っていた。
でも周りの木造家屋はほぼ全滅状態で、
瓦礫の山のそばに、写真と、みかんやお酒が供えてあった。
郵便局も薬局も小さな商店街も消えてなくなっていた。
涙がぽろぽろ流れていくだけで、言葉にならなくて、ただもくもくと歩き続けた。
私はこの光景を後世に伝えていかなくてはいけないと思って、
沢山の写真を撮って、持ち帰った。
でも持ち帰った写真は8年間、封印することになった。
「私は何を暢気に写真など撮っていたのだろう。ただの好奇心ではないか。」
「私は被災者ではない。何も理解出来ていない。」
「おにぎりを1500円で売る人。防塵マスクを2000円で売る人。
軽蔑していたけど、自分だって傍観者のひとりに過ぎない。」
猛烈な自己嫌悪に陥った。
8年後。
ようやく本棚の奥から手にとって見返す事が出来た。
去年の暮れ、
写真屋さんでもらった紙のアルバムに入れていた、それらの写真を
ハードカバーのアルバムに入れ替え、
「1995.1.17を忘れないために」 とマジックで書いた。
私が死んでも、このアルバムは娘に預けられ、そしてまだ見ぬ孫に伝えられる事を
望んだから。
大好きになった、クロマニヨンズの楽曲に
「鉄カブト」 と言う曲がある。
人はいづれ、必ず死ぬ。
だから仕方がないんだ、運命だったんだと、無理やり自分に言い聞かせたとしても、
でもあの人との思い出や、あの街のあの光景で過ごした時間の記憶は、
どうぞ、記憶だけは守ってほしい。
それでも記憶は薄れていく。
それでも忘れたくない。 忘れない。
「 あの人の思い出は守ってくれ、鉄カブト」
「 命はいい、記憶だけは守ってくれ、鉄カブト」