テーマ:心のかたち、人のかたち(949)
カテゴリ:メモ メモ ( ..)φ
多感な中学時代、遠藤周作氏の 『 沈黙 』と出逢い、 「 無力なイエス 」 に 大きな衝撃を受け、 洗礼を受けようと志した私の前に 大きく立ちはだかったのは、 『 親鸞 』を熱心に勉学し、多数の経文をも諳んじている父であった。 「 洗礼を受けるなら、 まず、この父を論破し、父を超えてゆけ 」 以来、父と格闘し、親鸞と格闘し、挙句に社会学を専攻し、 浄土真宗本願寺派の 基幹運動 について学生時代の3年間を掛け、 京都の本山にも学び、あくせくと卒論を仕上げた私なのである。。。 「 その割には、『 冥福 』 という言の葉をよく使うぢゃないか 」 、、という痛いご指摘を私書箱にお受けしたので、丸半日考えました。 おっしゃる通り、 真宗では、「 ご冥福をお祈り 」するのは禁忌なのである。 それは、亡くなられた方々は、 等しく全てお浄土へお還りになる「 佛 」であるから。 よって「 冥途の旅 」などは存在しないし、 「 冥界 」での「 幸福 」を祈っていただいては困る訳で。 寧ろ、無礼に当たる言の葉であったりする。。。。 しかし私は、信仰者ではなく、 世の方々全てが 真宗の門徒さんではない訳で。 ご不幸に遭遇した際に、その方々にこころ寄せ、 こころから悼み、哀悼の意を表して下さる、その一般的な表現が、 「 ご冥福をお祈りします 」という言の葉であるなら、 私は有難くいただくものであるし、 「 共通語 」として、私自身も使用して来たのだったが。 【 無礼に想う 】 方々もいらっしゃるなら、 今後は考えなくてはならないなぁ、と 少々反省(汗)。 、、と、午前中にご指摘をいただいたことから、 あれこれと想い、反省もし、煮詰まってしまい。 午後から「 ご冥福 真宗 」でちょっとググってみる。 この問題に引っ掛かられた方々は、多いようで、 ずらずらとヒットするなかで、 とあるお寺さんの、判り易く整理中、でいらっしゃるサイト を発見。 そこには、 人の「こころ」は目に見えません。 言葉の違いをハッキリ区分けされているのが「日本語」なのですから、 あなたの「 追悼の心 」に添ったふさわしい「 言葉 」や「 文章 」で、 目に見えない「 こころ 」を「 形(言葉や文章)」にして、 お伝えさせていただきましょう。 とあり、頭を殴られた心地がする。 、、私のように、識りながら遣っていた、これが一番性質が悪い。 そんな四角四面に考えるものでもない、と考え、 そして、佛教やら何やらが混沌としたこの世界を 私は愛してはいても、 「 温故知新 」 を常に意識し、言の葉をとても大事にしたい、と 常日頃から精進しようとこころがけているハズの自分が、 「 ひとが遣ってるから遣う 」 と安易に 「 形 」を踏襲する。 。。。。一番性質が悪い。。(-_-)。 弔意を表すのに、よりふさわしい言の葉とは、以下のようなものであるようだ。 ● 謹んで哀悼の意を表します ● ご遺徳を偲び、哀悼の意を表します ● ご逝去を悼み、慎んでお悔やみ申し上げます ● ご生前のご苦労を偲び、謹んで敬弔の意を表します ● ○○様のご逝去を悼み、慎んでお悔やみ申し上げます ● ○○様のご逝去なされたと聞き、深い悲しみに沈んでおります ● ○○様のご逝去、衷心哀悼の極みに存じます ● ご遺族さまのご愁嘆いかばかりかと拝察申し上げます ● ご逝去の報に驚いております さぞかしお力をおとしでございましょう 申しあげる言葉もございません う"~ん。 弔電によくある形ではあっても、 こうした言の葉なら、あらゆる宗派を超えて、悼むこころをお伝えできる。 そして、本日、改めて気付いたのは、 佛教自体が、「 如何に生きるか 」 な、 或る意味学問のようなものである、ということの再認識と、 佛教には「 冥途 」は存在しないのであり、 「 冥福を祈る 」言の葉は、 真宗のみならず、良くないものである、ということである。 ぅむむむ。 確かにそうだ。 これは目からウロコであった。 私書箱にメール下さった匿名さんに、こころから感謝を。 とても勉強になりました。 お教えいただき、有難うございましたm(__)m。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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