テーマ:ひとりごと(15299)
カテゴリ:徒然草
仏教において、ご法要の意義とは 各宗派でそれぞれに異なってはいるものの、 ( それはもう、恐ろしく異なる! ) 私自身は、( いつ )何処で手を合わせても同じ。 問題は 己が手を合わせる そこに、 己の真が在るか否か だと 思っている。 それでも ひとつの「 区切り 」として わざわざ 故人の忌日に「 法要 」を営む意義は 以下のようなところのものではないか、と。 現代を生きる私たちで、 本気で 神や佛の存在を信じ、日々敬虔な「 信仰 」生活を送っているひとは、 数少ないのではないか、と思う。 そんな私たちでも、これまで生きて来たなかで 近しいひとびとの逝去に遭い、結果、法要に招かれたり、営んだりしている。 前提のやうに「 確固たる信仰を持たない 」私たちが、ご法事に臨むにあたり、 まずは、故人の忌日に、故人と縁在ったもの、として集まるのだから、 改めて この日に故人を偲ぶこと、だったり、 故人によって結び付けられている、参集したひとびとと自分とのご縁を想ったり、 さらには 日常に追われ、日々流されている自分を見つめ直したり、 様々なご縁で「 生かされて在る 」ことを再認識したり。 たくさんのいのちの繋がりのうえに 生かされて在ることに感謝のこころを持ち、 己のこれからの日々の在り方を想い、 「 精進すること 」を それぞれにこころに誓うこと――。 。。。そんなようなことが、 各宗派を超えて 言えることなのではないか、と愚考する。 加えて、法要に お子たちが出席することは、 そのことで 「 仏縁 」 というものやら、 冠婚葬祭でしか出逢わない親族 というものとの 「 繋がり 」やら、今日までの縁 ( えにし ) を肌で識る、 よい機会なのではなかろうか、、、とも思ったり。 参集したひとびとが、それぞれ故人に縁( ゆかり )あるものとして、 共に食事をし、互いの近況を伝え合うことも、また 改めて故人を偲ぶ縁( よすが ) になるのだ、とも思う。 なんにせよ、60代になっても未だに分家の義叔母から、 熨斗袋の中身まで指導される面倒さには、共感するものの、 法要に招待されて「 迷惑 」とか 包んだ金額に見合わぬフィードバックなら「 損 」であるとか、 んな身も蓋もないことは、 お願いだから、思ってても口には出さないでいて欲しい。。。 ご法事に 御佛前や御供として供えられた熨斗袋を お帰りの際に、 「 お気持ちだけいただきました 」 と 茶の子と共に 丁重にそのままお返しする風習は、 広島市中央部だけなのだろうか。 、、とはいへ、広島市でも、 内々の法事だったり、本当に「 略式 」の場合だけ、である。 それは、いただいた額の 【 半返し 】 という風習があるため、 ご法事で いただく熨斗袋の中身に合わせ それぞれ異なる茶の子を手配し、後日送付や持参しなくてはならず、 その手間を厭ったことから 始まったのではないかと思うのだが。。。 だもんで、わざわざこの日に参集していただいたことだけで有難い、と、 熨斗袋の中身は頂戴せずにお返しし、 一緒に、その日にお渡ししてしまう茶の子は 一律同額のものである。 お料理代、茶の子代 ( 会場代 )と 多人数になればなるほど 施主側は大変であるが、現代的で合理的。 善哉、善哉、だと 私などは感じて来た。 けれど、ここ数年来、ご葬儀のときに、 もう 『 満中陰の茶の子 』 を渡されるようになって来たのは ヤり過ぎだと思うし、ついて行けないものを感じているです。 今回の事件で、改めて。 日頃より、「 想いを形に 」 と思っている私であるけれど、 「 こころ 」 を 物品 という具体的な形として包むことは なんて難しいことなのだろう、と思ったことである。 モノやお金で ひとのこころは はかれない。 けれど、佛事など、 モノやお金で 己のこころを包まなくてはいけなくなった場合、 何処に 自分自身の判断基準を置くか。 そこに、己の立場、とか 世間体 とかが 反映されてはいないか。 己は、世間相場、というものから、全く 自由であれるのか。 等々。 迷惑至極に思えた、今回の義母の爆発、憤懣から端を発し、 いろいろいろいろ 考えさせられたことである――。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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