無題
誰かに出会う為にぼくは生きることを許されているんだ。唐突にそう思ったのは別に何か理由があったからとか、そんなんじゃない。ぼくは何かを学ぶためにこの空を眺めることを許されている。ぼくが諦める時、すべてがぼくを見限る。それは自然、宇宙、理、時限。お前はもう限界を見てしまった、休むが良い と誰に逢うためにぼくはここにいるのか。何を学ぶためにぼくはここにいるのか。誰も教えてはくれない。それは命という無限のサークルの謎を解く行為そのもの。知るはずもない、感覚、知識、それゆえにぼくは宇宙を知るのだ。知りたい。逢いたい。それを許したぼくの創造主がぼくをこの世界に落としたのだと、幻想ではなく、想像でもなく、紛れも無い事実として、いつぼくは理解できるのだろう。ふと宇宙を眺める。冬の空は夏の塵を食べてしまったかのようにその透明の空気に自らを地上に落としている。所詮、ぼくは死ぬことも生きることも出来ない。ぼくは生きるのではなく、生かされていてたとえ自殺を図ろうとも、それは既に描かれていた悲劇だ。一番、悲しく苦しく寂しい道。末路はどこにでも凄然と構え、ぼくを待ち受けている。死ぬことは必然だ。この世界のすべてに偶然は無い。ただひとつ、それに近いものがあるとするならば、それはぼくが諦め、自ら世界を放棄するときだろう。ここで呼吸をすることが出来ることの喜びはこの世界のどんな喜びにも勝るものだというのに人は(ぼくも含め)それを胸に刻みおいておくことが出来ない。皮肉なものだ。大切なことに気づこうとすればするほど、ぼく(わたし)という人格は常軌を逸するまいとして破壊行動を起こし、それを忘却へと葬り去る。ぼく(わたし)という人格に忘却が備わっているのは無常の世界のなかで生かすためなのか。わかること、わからないこと。多すぎる疑問、こんなにも歯痒い。生き急ぐことはない。いずれわかる答えだ。今知る必要などない。いや、もしも、ぼくがこの世界の謎をすべて知ったとしたらその時こそが、死の安らぎへと誘われる時なのかもしれない。。。+++++