わたしたちが孤児だったころ
「わたしたちが孤児だったころ」(カズオ・イシグロ)を読みました。日の名残りや、遠い山なみの光と同様、主人公が過去を語る形式になっています。遠い山なみの光では、主人公の女性の後半の人生を描く部分があまりに少なく、このような構造の小説にする必要はないのではないかという気がしたものでしたが、この作品では各時代とそこに登場する人物がきちんと描かれていて、重層的な構造がよく効いていると思いました。ただ、少し複雑すぎるのと、主人公が大人になってからのことを描いているところがなんとなく夢のようにぼんやりとして現実感に乏しく、日の名残りの読後感には及びませんでした。上海の租界で暮らしていた主人公クリストファー・バンクスは両親が失踪し、ロンドンに帰され寄宿学校に入る。両親を見つけるため探偵となるという思いを実現し、いくつも事件を解決して社交界でも成功して、いよいよ両親を探すべく再び上海へ向かって…。その後なんやかやあったことを、後から振り返るというような話。このうち、少年時代の思い出は、もう何十年もたってから回想しているため、「どうしてだか分からないが」とか「よく思い出せないが」など、思い出そうとしても限界があるように書かれているのですが、子ども独特の感情がいきいきと描かれています。たとえば、クリストファーの父親の貿易会社はアヘンを中国に輸入して利益を上げている。母親は会社のこのような行為を許せない気持ちでおり、反アヘン運動とでもいうべきものを行っているほどで、そのため二人は口を利かない仲になることがある。しかし子どものクリストファーにはなぜ両親が口を利かなくなるのかが分からず悩み、隣家の日本人の少年アキラに相談する。するとアキラは、自分の両親は自分が日本人らしくないことをした時に黙ってしまう、だからクリストファーがイギリス人らしくない行いをするからだと答えるのです。そして、子どもはブラインドの板をつないでいる糸のようなものなのだと、僧侶に聞いたことがある、家族だけでなく世の中全体もしっかりつなぎとめているのは子どもなのだと、アキラが言います。そのたとえを、クリストファーはさも自分の言葉のように繰り返し使っています。この、大人の様子を窺ってどうしたらいいか不安に思ったり、ちょっとトンチンカンだけどなかなか含蓄のあることを言ったりする子どもの様子が、リアルでいいなと思いました。それに比べると、大人になり探偵として活躍する場面は、なんだか曖昧です。といっても、これはミステリー仕立てではないので、知らないうちに勝手に調べてあったりするのは一向に構わないのです。しかし探偵の仕事が世の中をよくしていくものであるとか、当時の列強国が寄ってたかって乗り込み混乱を極めている租界の状況も、世界が戦争へと向かいつつあるのも、探偵である自分がなんとかせねばならないし世の中もそれを期待している、とでもいうような考えが、当たり前のことして描かれていて、読んでいるこっちは、なんで?どういうこと?と、当惑させられます。これは、クリストファーは大人になってもある時期までは子どもの幻想の世界に生きていたということを描いているのだろうと思いました。そういうことを、直接的に言葉にして書かないところがミソで、小説全体で表現しているのだろうと。タイトルが「孤児だったころ」としているのはいつまでなのか。それは、クリストファーに関しては、改めて上海に出向き、年老いて相手が息子であることが分からなくなった母と対面したその旅を、あとで振り返っている58年以前、ではないかと思います。ロンドンに何十年と住んでいるのに、そこを故郷だと思うことができなかった主人公が、ようやくロンドンの暮らしに執着を感じるようになっているのを自覚し、この後の人生をここで暮らしてもいいなと思えるようになっています。最近の世の中を見ていてよく思うのは、理不尽な理由で住むところを移ったと考えることによって、より苦痛が大きく、または長く続くのだということ。理由が違えば結果は同じでもそう感じないのだから、そのように考えなくてもいいのではないかと、他人には思えるけれども、理不尽さや喪失感が拭えないということは、苦しいことなのかもしれないと。この話でも、「孤児だったころ」としているのは、たんに母親が見つかったから、ではなくて、子どものときに突然両親を失ってしまったという理不尽な喪失感を乗り越えて真の意味で大人になるまでを、このように表しているのではないかと思いました。