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西條剛央のブログ:構造構成主義

西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2005/08/26
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カテゴリ:論考
 以前日記にも書いたが最近,集中講義を連続で行っている。
http://plaza.rakuten.co.jp/saijotakeo0725/diary/200508020000/

 これを契機に,今まで「教育」について考えてきたことをまとめてみようと思う。

 構造構成主義的教育論などと大仰な題名がついているが,要は,ぼくが「素手」で考えた教育論である。それゆえ,部分的には,すでに,そこここで議論されていることも含まれているに違いない。

 しかし,これはシリーズで続く予定なのだが,「その理路全体」としては,それなりにオリジナルなものにもなっているのではないかと思っている(その理由は,あまり聞いたことがないといういい加減なものだが)。

 とはいえ,どの議論はすでになされていて,どのあたりが新しいのか是非知りたいし,また新たな洞察も得たいので,みなさんにご意見,感想などいただけるとありがたいです。


 

 どうも,世の中の多くの人は,「忘れる」ということに関する認識が「甘い」ように思う。あたかも「うっかり忘れてしまう」というように捉えているところがあるように思われる。

 「あ,いけね,ついうっかり忘れちゃった」というわけである。

 逆にいえば,「順当にいけば覚えている」ということになる。


 しかし,ちょっと考えれば,これは実際とは違うことがわかる。

 我々は「つい,うっかり覚えている」のである。

 そして「順当に忘れている」のである。

 たぶん,使わないことの99.9%以上は忘れている。

 覚えているのは,スナック菓子でいえば,袋の底の残りカス以下といっても過言ではないと思う。

 このことは,かつて覚えたはずの「日本史」や「世界史」についてどれだけ覚えているか自分で確認していただければ納得していただけることであろう。

 幸か不幸か,一部の異才を持つひとを別とすれば,おおかた綺麗さっぱり忘れてしまっているに違いない。

 そして,つい,うっかり妙なことを覚えていたりするのである。


 そんなものである。


 現在の教育は,このことをすっかり忘れているようにも感じられる。

 まあ,当たり前のことは忘れやすいので仕方ないのだが。

 

 こんなことをいうと,「いやそんなことはない。漢字の読み方などは覚えている」と反論されるひともいるかもしれない。

 それはその通りである。

 これは,上記の発言と矛盾しているように思われるかもしれない。

 しかし,これは「使う」ということを間に挟めば,問題なく両立する。

 使わないことは綺麗さっぱり忘れる。

 使うことは覚えている。

 それだけの話である。



 それゆえ,よくNOVAキッズなどと英会話スクールが,子どものうちに英語を学ぶ必要性を説いているが,あれはムダなお金と貴重な子どもの時間の浪費で終わるだろう。

 子どもの頃に週に数回,ネイティブの人と戯れたぐらいで,英語が話せるようになるわけがない。

 ぼくは,どういうわけか幼稚園がキリスト教系で,英語のネイティブの先生が1クラスに1人はいて,聖書を英語で読む授業がほぼ毎日あったが,中学になったときには,“Lion”ぐらいしか,覚えていなかった。

 もっとも,小学校の頃はまともにローマ字もやらなかったので(授業では習ったのだが全然覚えようとしなかった),そんなんだからダメなんだという意見は甘んじて受けねばならない。

 しかし,興味深いのは,幼稚園卒業後も,その幼稚園の英会話スクールに定期的に通える制度があるのだが(もちろん自分は行かなかった),それに小学校6年生まで行っていたひとの中学の英語の成績は,全然たいしたことがなかったということである。もちろん,試験の成績だけではなく,話せもしない。

 言語に関していえば,ラングは通常の生活において他者とのやり取りの中で構築されていくものなのだから,普段の生活で英語を話さなければならない環境にいなければ,英語のラングは構築されない。

 考えてみれば当然のことである。

 NOVAキッズにいっている暇があったら,自由に遊ばせていたほうがよほど良い,とぼくは思う。



 そもそも,日本でも英語を話せた方が良いというのは,英会話スクールが儲けるためにでっち上げた「ウソ」といわねばならない。

 日本でふつうに暮らす限り,日本語の読み書きができなくて困ることはあるが,英語の読み書き,会話ができなくて困ることはないと申し上げてよろしいだろう。 

 国際学会で発表する機会のある学者や,外資系の企業で働く人は別として,日本で普通に暮らす限り英語なんぞ話せなくともなんの不便もない。

 ぼくの両親は英語はからっきしだろうが,全然こまったところをみたことがない。

 というよりも,英語を話さなければならないような状況をみたことすらないので,ほんというと,からっきしかどうかさえ判断する材料すらないほどだ。

 だいたい日本語もまともに読み書きできない小学生の段階で,英語を話そうなんて本末転倒であろう。




 商売の基本戦略は,それが必要だと思い込ませることだ。

「これからは国際社会なので英語を話せた方が絶対に良い」

「やせた方が絶対に良い」

 等々,なんの絶対的根拠もない価値基準を刷り込むことから商売が始まる。



 しかし,だからといって,そういった商業主義が「悪」だといって断罪したいのではない。

 資本主義社会は,お金によって駆動する社会である。

 それゆえ,そうした戦略を使った金儲けを「汚い」とか「悪い」とかいってもしょうがない(明らかな詐欺の類は話は別であるが)。

 この社会は,そういう風にできているのである。

 こうした戦略によって商売が行われるということを自覚した上で,いろいろな企業の宣伝戦略を見極めて,自分に必要なサービスや商品を手に入れればよいだけの話である。




 さて,「使わないことは忘れる」ということに話を戻そう。
 
 真面目な方は,「うーん,それは困った。いつも復習しなければ忘れてしまう」と思われるかもしれない。

 だが,復習などする必要はない。

 否,それはおおかたの場合ムダと申し上げてもよろしいであろう。

 なぜなら「使わないから」である。

 「使わないことは綺麗さっぱり忘れる」ということは,実に機能的なことなのである。

 その点,人間はよくできている。



 しかし,「教育」は必ずしもそうではない。

 そうではないという意味は,必ずしも機能的ではないということだ。

 「綺麗さっぱり忘れてしまった方が使い勝手がよいこと」を無理矢理覚えさせるのだから。

 そのことにどれだけの意味があるか,僕の頭では理解できない。不思議ですらある。

 使わないことをわざわざ,人為的な努力により覚えている必要はないだろう。



 もっともいえば,「覚えている」ことそれ自体もあまり意味はない。

 肝心なときに「使える」ならば,「覚えている」必要はないからだ。

 「覚えている」ということは,主に受験勉強という文脈に限定的に意味のあることなのである。

 それ以外の場合,「覚えて」いても「使えない」のでは意味がない。

 覚えていなくとも「使えればよい」。

 したがって,教育効果を計る際には,択一テストなどで教えたことを「覚えているかどうか」チェックするのではなく,教えたことを「使えているかどうか」をみるべきであろう。

 それゆえ,ぼくは基本的に,自分が授業で取り扱った概念を使ったレポートを書いてもらうことにしている。その「使い方」から,習熟度をみるのである。

 

 ともあれ,以上の洞察から「使うことを教えればよい」という教育的示唆が得られる。
 
 それゆえ次に,一体「使うこととは何か?」という問いを立てることになろう。

 より具体的にいえば,「普段の生活で,あるいは人生において使うこととは何か?」ということになる。

 いくら命令されたとしても,使って意味のないものを,いつまでも使い続けるバカは少ない。

 我々がテレビのリモコンを使うのは,便利だからである。使って意味があるからである。テレビを作っている会社に命令されているからではない。説明書に書いてあるからではない。

 つまり,使って意味のあることだから,役立つものだから,便利なことだから,「使う」のである。



 したがって,次に問うべきは,「使って意味のあること,役立つこととは何か?」ということになる。


 さて,それは一体何だろうか?
 






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Last updated  2005/09/07 12:21:58 AM


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