カテゴリ:東日本大震災
先の日記では,地面は乗り物と同じで揺れるもの。油断はせず,準備や備えをして,地震がきたら確認するポイントを決めて「予期不安」を低減しつつ,冷静に対処しましょうということを書きました(3.19.)→http://p.tl/fC2D
今回は「他者の安否」というもう一つの地震不安と,その対策のための連絡手段と疎開の意味について書いて観たいと思います。 僕が今回の地震に遭遇したのは,痛めていた首を治療するために,システマの北川さんに紹介していただいたアシル治療院で施術を受け始めたときでした。 地震が起きたときは,机の下どころか施術台の上で,「あ,地震ですね,けっこう強いですね」と言いながらもそのまま寝ていました。 僕が揺れ初めてすぐチェックするのは,「最悪このまま強くなったとしても生き延びれる場所かどうか」です。 周囲を観察します。そのときは三階建ての三階だから最悪潰れても何とかなるだろう,それからわりと狭い範囲に柱が多いからかなり頑健だろうから大丈夫だろうと踏みました(だからトイレは安全といわれています)。 さらに揺れが強くなってきてさすがにこれままずいとなってから,起きてロッカーなどが倒れないように支えながら,扉をあけて脱出口だけを確保しました。 この段階では怖いとは思わずいつも通り冷静に対処していました。 * しかしあまりに長く強い揺れの中で思ったのは,「ついこの前,宮城県で地震があったから,これが宮城震源だったら実家は大変なことになるぞ」ということでした。 揺れが落ち着いてから,治療院の人が情報を確認しに下の階に降りていきました。 「宮城震度7です!」という声が響いてきた瞬間,これは本当にまずい!と思いました。 実家で震度6弱ぐらいまでは大丈夫だろうけど,それ以上だったら潰れるかもねと冗談交じりで話していたのです。 潰れたかもしれない。焦りました。 実家にすぐに電話しましたがツーツーという状態でした。受話器が外れてしまったのか,通信網が破壊されていたためかわかりませんが,やはり倒壊したかもしれないと思いました。 * どうしよう,どうすればよいのか,と頭をフル回転させました。震度7なら広域にわたって壊滅的な状態になっている可能性は高い。 自衛隊などの手も回らない。 レンタカーを借りて自分で助けに行くしかない。 mixiやTwitterで家族に安否を知らせるように求めたところ,嫁さんと下の妹の無事は確認できたので,ともかく家に帰ることにしまた。岡田さんは「辿り着けるかわからないから」といって有機野菜のパンを二つと傘を渡してくれました。有難く頂き,お礼と余震にお気を付けてといって後にしました。 駅でタクシーを拾うのは無理だと考えて,あえて駅と反対方向にずっと歩いていきました。しばらく歩いているとタクシーを拾うことができました(消防士さんを降ろしたところだったようです)。 嫁さんの会社の住所を調べてタクシー運転手に告げ,会社で嫁さんを拾って家に向かいました(その日の混乱は知っての通りで,もう30分遅かったらタクシーは拾えなかったと思います。結局家の近くまできて進まなくなったので降りて歩きました)。 家に戻る途中のタクシーの中で父から「こっちは無事」というメールが回ってきて胸をなで下ろしました。あまりに短い文面だったので,父だけが無事なのか,家はどうなのかわかりませんでしたが,無事というのだから無事なのだろうと思いました。 あれほど「胸をなで下ろした」ことはこれまで生きてきて初めてでした。 * 茨城に引っ越したばかりの上の妹(兄,自分,妹二人の四人兄妹なのです)とも連絡がつかずかなり心配していたのですが,その妹からもメールが届きました。妹夫妻(旦那が親友)がたまたま翌日の友人の結婚式に出るために茨城から仙台に向かう途中のインターチェンジで地震に遭遇したようです。そのまま食料などを買い込んで仙台入りすると聞いて,少し安心しました。 しかし,それは想像以上に危険なことだったようです。 停電で信号のない真っ暗な大通りを走る必要があり,すぐ後ろの車が真横から追突されて一瞬遅ければ自分たちが追突されていたかもしれないといっていました。 ペーパードライバーの自分が行っていたら事故に巻き込まれていた可能性は高かったでしょう。これだけ考えても情報があるかないかによって,命が左右されうるということがよくわかります。 震災直後電話はまったく通じませんでした。メールもものすごいタイムラグがあってあまり使えませんでした。Twitterやmixiといった媒体だけが唯一普段通り使えました。 連絡がとれず生きた心地がしない状況で,両親にもTwitterをやらせておくべきだったと思いました。家族には普段使わなくともいざというときの連絡手段として登録だけでもさせておいた方がよいでしょう。 * 妹達は数日後ガソリンぎりぎりで茨城(筑波)に帰ってきたわけですが,そこも主被災地です。 先日引っ越したばかりで親しい人が近所にいるわけでもないので,「ライフラインもないそこにいても危険なだけで何もできないから」といって疎開を勧めました。 幼い姪っ子,甥っ子もいます。原発の問題が不透明な状況だったというのもありますが,茨城,福島,仙台とあまりに過酷な状況を渡り歩いてきた精神的な負荷も大きすぎると思ったのです。 それで翌日大阪の実家に行ってくれて安心しました。今も茨城にいたならば「茨城震源」と聞くたびに心配していたと思います。 地震の本当の怖さは,自分のことだけじゃ済まされないところにある,ということが今回よくわかりました。 自分のことだけなら,何とかなると思ったり,なったらなったで仕方がないと思うこともできます。 しかし親しい人のことはそう簡単に割り切れるものではありません。特に小さな子どもがいる場合にはなおさらです。 疎開とは,自分以外の「親しい他者」を巡る地震の怖さを低減する一つの有効な方法なのです。 だから誰かのために疎開する,自分のために疎開して欲しいという形になるのです。 それを「逃げる」とかいうのは根本的に的が外れています。 よって主被災地の人が「疎開」するのは,主被災地の限られた人的・物的資源を考慮しても妥当なことだし,心配している人たちのメンタルケアという点でも意味のあることだと思います。 ただし主被災地ではない東京で働いている人は,東京では原発のリスクもさしあたりないことが明らかになっている現在,買いだめや疎開は自粛して,地震への心構えだけはして,自分にできることをするのは大きな貢献になる,ということは意識しておいてもよいと思います。 (早稲田大学大学院講師 西條剛央) ブログやTwitterなど転載ご自由にどうぞ。 その他の大震災関係の記事はこちらを下に下がっていくとあります→ http://p.tl/XcQA お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011/03/26 07:24:17 PM
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