カテゴリ:東日本大震災
原発は最悪の結果は回避したものの,準最悪な結果の周辺を漂っています。
ここに至って「だから言わんこっちゃないじゃないか!」と元々原発に反対していた人は思うかもしれません。 結果をみれば,その通りだと思います。 ただそれでも,原発反対派が絶対に正しくて,推進派は絶対的な悪とは言い切れないと思います(ただしもし一部の利権絡みで原発推進が行われていたならばそれについては批判がなされてしかるべきでしょう。それは別の問題として置いておきます)。 高度成長期を含め福島原発は40年もの間(僕が生まれる前から)経済の活性化,産業の発展に貢献してきました。 日本でその恩恵を受けていない人はいません。 経済の活性化や産業の発展といった関心からすれば,原発は確かに有効な方法だったのです。 僕らは原発に支えられ,育てられたということもできるわけです。 そして地球のタイムスケールからすれば,このまま2100年まで今回のような地震が起きなくてもおかしくなかったでしょう。そうすれば僕らは原発に支えられたまま死んでいったわけです。 * しかし今回の震災で,想定外の巨大津波によって安全神話が破壊され,原発はその有効性よりもリスクの方が大きいことが明らかになりました。今となっては,原発は新たに採用できない方法になってしまった,といってよいでしょう(政府もエネルギー基本計画の見直しを表明しました)。 ただしこれは3.11.以後の事後的な言明であることに注意してください。 皮肉なことに,取り返しのつかないことが起こって初めて広く了解される,ということは少なくないのです(僕も含まれます)。 それは,現在も首都直下型の巨大地震が起こる可能性があるにもかかわらず,1000万人以上の人が東京で暮らし続けていることを考えてもわかります。今も次第にその切実な心配度合いは下がってきており,自分も含め早くも「喉元過ぎれば」となりかけています。 今回はたまたま首都直下型地震は起きませんでしたが(今のところ起きていませんが),もしそのような激震災が起きたならば,津波や火事によって今回の震災のさらに何十倍という単位の犠牲者が出てもおかしくなかったでしょう。 現在も大火災の原因のある古い住宅密集地などは都内にいくつもあります。津波対策もまったくもって十分ではありません。危険とわかっていても事実上どうにもできずにいるのです。 このように考えると,僕も含め今も東京を含めた危険性の高い地域で暮らしている人は,今回の原発問題が起きてから事後的に「だから言ったじゃないか」と全否定する資格はないのかもしれません。 * 超巨大地震はこれからも日本中どこでも起こりえます。というよりいつか必ず起こると考えていた方がよいでしょう。 しかし,そこで暮らしている僕らは,そんなことは起きないと思いたいのです。今まで通り暮らしたいという関心や欲望を持っているためです。仮に起きたとしても自分だけはなんとかなるだろうと思っているはずです。ですから見て見ぬふりをするのです。人は見たいものしか見ない、というカエサルの名言は今も色あせることなく息づいています。 今回不幸にも津波に襲われてしまった地域の人々もそこでずっと暮らしたかったでしょうから,いくらなんでもそんなことは起きないと思っていたはずです。でも起こってしまった。 このことをどう受け止めるかです。 * 今日こんなニュースが流れていました。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 「此処より下に家建てるな…先人の石碑、集落救う」 http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1551817&media_id=20 東日本巨大地震で沿岸部が津波にのみこまれた岩手県宮古市にあって、重茂半島東端の姉吉地区(12世帯約40人)では全ての家屋が被害を免れた。1933年の昭和三陸大津波の後、海抜約60メートルの場所に建てられた石碑の警告を守り、坂の上で暮らしてきた住民たちは、改めて先人の教えに感謝していた。 (略) 地区は1896年の明治、1933年の昭和と2度の三陸大津波に襲われ、生存者がそれぞれ2人と4人という壊滅的な被害を受けた。昭和大津波の直後、住民らが石碑を建立。その後は全ての住民が石碑より高い場所で暮らすようになった。 地震の起きた11日、港にいた住民たちは大津波警報が発令されると、高台にある家を目指して、曲がりくねった約800メートルの坂道を駆け上がった。巨大な波が濁流となり、漁船もろとも押し寄せてきたが、その勢いは石碑の約50メートル手前で止まった。地区自治会長の木村民茂さん(65)「幼いころから『石碑の教えを破るな』と言い聞かされてきた。先人の教訓のおかげで集落は生き残った」と話す。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ わかっているのにやらない,というのは自滅への近道です。しかし人間はそうした不合理なことをしてしまう。なぜでしょうか。 それはコストという観点から経済学的に説明可能です。 このままでは危険が迫る,死ぬかもしれない,壊滅するかもしれない,しかし「埋没コスト」があまりにも大きい場合,それらが「かもしれない」(絶対ではない=逃れる可能性が1%でもある)以上は動かないという選択肢をとることが多いのです。 たとえばいくら危険性が高いといわれても,そこに土地を買い,家を建て,近所とのコミュニティの中で絆を深めていったときに,それをすべて失う「埋没コスト」は極めて高くつきます。 さらにそこを引き払うとなった場合には,家族や知人,友人,隣人,親戚すべてが,納得できるように説得しなければなりません。それを経済学の用語では「取引コスト」といいます。 「埋没コスト」も「取引コスト」も高すぎれば,いくら危険性が高いと思っても人は動かないのです。このように考えると理不尽な行動などではなく,合理的に判断した結果,理不尽な結果に陥ってしまうということがわかるでしょう。 しかし「取引コスト」自体は良くも悪くもないので,もちろん良い方向に働くこともあります。 先の記事にあった地区は「此処より下に家建てるな」という先人の教えを頑なに守り続けました。それは先祖の教えを信仰的に守っていたという解釈ももちろんできると思いますが,そのような教えが絶対的な位置づけになっている社会において,それを破るには,多くの取引コストが生じます。 怒る親を説得し,子どもも死ぬぞと本気でいってくる祖父母をなだめすかし,自分自身をも大丈夫だと思わせる必要があります。コミュニティベースの地域にとってそうしたコストは大きすぎる。だらかこそ教えを守ったと解釈することも可能になります。 他方でこの「取引コスト」が悪く転ぶことももちろんあります。たとえば東京には極めて危険な古い建物が密集している地域があります。震度6強~7といった地震が起きたときこそうした建物は倒壊し火事になる危険性は高いと予測されています。 そうした地域がいくつか出てくると火は止めることができなくなり,大火災になります。その結果100万人という単位の人が死亡する可能性があると予測されています。 しかし,だからといってその地域の人が引っ越したりしないのは,やはり先に説明した「取引コスト」から解釈することも可能になります。 * さて,これがポスト3.11.以後の社会構想とどう関係するのでしょうか。 まず,僕らの合理的判断には,意識しているにしろしていないにしろ,取引コスト,埋没コストという言葉によって説明できる部分があります。 東京から首都移転することは,東京に本拠地を構えてきた多くの企業や多くの人々にとって,あまりにも大きな「埋没コスト」を生じさせることになります。したがって首都直下型地震が起きていない状況で,多くの人を首都機能分散や遷都論を了解させることはほとんど絶望的なほどの「取引コスト」がかかります。 このように考えれば,首都機能移転といったアイディアは,首都直下型地震が起きて壊滅的打撃を受けた後にはじめて,多くの人に説得的な智慧になる可能性が高いといえるでしょう。 * しかし,それで本当によいのでしょうか。 取引コストや埋没コストという概念は,事後的に何かを説明(解説)するときにとても便利な言葉です。 しかし何かが足りない。そう,事後的な解説はできるのですが,予測や制御という点ではそこまで有効ではないのです。 科学とは何でしょうか。 僕が最も原理的だと考えている池田清彦先生が創唱した構造主義科学論によれば, 科学とは現象をより上手に予測,制御する構造を追究する営み,ということになります。 すなわち,取引コストや埋没コストは,解説には向いているのですが,そのままでは科学的な説明概念としての有効性には限界があるのです。 * ではどうすればよいのでしょうか。 取引コストも埋没コストも,コストといっている以上,“必ず特定の観点からみたコスト”のはずです(構造構成主義的にいえば、すべてのコストは関心相関的である、ということになります) つまりある観点からみたら埋没コストだったとしても,違う観点からみたらそうではないということがありうるわけです。 人生におけるすべての出来事には意味がある,という意味論的,物語論的な命題を組み込めば,事実的な観点からみると埋没コストにみえることも,埋没コストなのではなくなることがあります。 たとえば,自分にはあわない参考書でずっと勉強してきた人がいます。試験直前になってきてあわないのではないかと気づいていた人も,それを認めるには今までの自分の勉強時間が無駄になってしまいます。これが埋没コストです。 しかし「すべてのことには意味がある」という根本仮説を踏まえれば,そこでそのように気づいたこと,それ自体に意味があるわけですから,気づきによって次のステージに向かえたらそれでよいということになります。 ですから,埋没コストになるかどうかは観点(捉え方)によって決まるということです。観点を変えれば,埋没コストがあったからこそ、方針を変換することができた、それがあったからこそ大きな飛躍につながったということはありうるわけです。 * 僕らは紀元後にたった二回しか起きていない1000年に一度という「超巨大地震」に遭遇しました。1000年前は原発もなかったでしょうから、有史以来最大の災害といってもよいでしょう。 この未曾有の悲劇を肯定することは決してできませんが、僕らがこれを乗り越えていき、あの悲惨な出来事があったから僕らはこんな風になれたんだと思うことができれば,甚大な被害や計り知れない哀しみは埋没コストではなくなるわけです。 僕らに過去を変えることはできません。しかし、過去の“意味”は事後的に決まります。 今僕らができることは、いつかそう思えるようになるために、できることをし続けるということしかないと思います。 僕らはどういう関心をもっていけばよいのでしょうか。どういう観点を持つことで,異なる関心に基づく信念対立を解消し,ひろくわかりあえる議論ができるようになるのでしょうか。 それに答えが出たとき,日本は大きくわかると思います。 そしてその答えはほぼここにあると僕は思うのです。 (早稲田大学大学院商学研究科専任講師 西條剛央) ・転載等ご自由にどうぞ。 ・ご意見,誤字脱字,お気づきの点などございましたらTwitter(saijotakeo)にてお気軽にコメントいただけるとありがたいです。 ・その他の大震災関係の記事はこちら→http://p.tl/J9Xt お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2011/03/31 09:54:02 AM
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