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西條剛央のブログ:構造構成主義

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西條剛央

西條剛央

2013/09/01
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カテゴリ:東日本大震災
おはようございます。

何を隠そう隠れあまちゃんファンで す。

密かに毎日楽しみにしてます(笑)。

しかし、昨日ドラマはついに2011年3月11日の昼を迎えてしまい、いきなりテンションダウン。

実際、あの後に多くの人が亡くなくなったわけだからそりゃテンションも下がる。伯父さんもそのうちの一人。

自分でも落ち込むんだから、あまちゃんを楽しみにしている現地の人達の心中はいかばかりかと思う。



「あの震災っていったいなんだったのだろう……」と今でもたまに思う。

いつだって、いまだって、どこかで悲劇は起きて、人が亡くなったり、財産を失ったりしているわけだけど、戦後の日本であれほど同時にあれほど甚大な悲劇が多くの人を襲ったことはない。

だから2011年3月11日のお昼というのは世界の分岐点で(そういえばあのときの昼には自分何食べたんだろう)、これからあれが起こるかと思うとドラマと思っていてもテンションは下がらざるを得ない。

そして否が応でもあの日のことを思い出す。

そこに防災の日をぶつけてくるあたりは、くどかんやはり狙っているのだろうか。



他方で、ふんばろうの仲間や現地の方々をはじめとして、震災がなければ出会わなかったであろう多くの素敵な 人達と出会えたのも事実。

中には支援活動がきっかけになりよきパートナーと出会い結婚した人もいる。

そういう意味も含めて、あの震災は多くの人の人生を変えた。

それは間違いない。

そしてあの震災がなんだったのか、その意味は、これから僕らがどういう未来を作るかによって決まるのだと思う。

原発のことも含め「あれだけのことが起きたのに結局社会は何も変われなかったね」という事態だけは避けなければならないと思っている。

失われた命も、その人を想う哀しみも、放射能で故郷を追われた人達も、それじゃあまりにも浮かばれない。

「あの悲惨な出来事を肯定することは決してできないけども、あれがあったからこんな風になれたと思うことはできる。それが僕らの目指すべき未来なのだ。」(『人を助けるすんごい仕組み』より)

ということで、目指すべき未来に向かってがんばりますかね。





という記事をFacebookにアップしたら、

「その日のTwitterは「胃が痛くなってきた」というツイートがあふれていました。
無かったことにしたいけどあったんだよね。。。という声も多く、思いは同じなんだなあと感じた昨日でした。」

というコメントをいただきました。

おかげさまで、震災とは何なのか少しわかった気がしました。

あの震災の僕らにとっての意味本質を一言でいえば、

“できることならなかったことにしたいけど、それでもそこにある現実”なのかもしれないと。

バタイユという哲学者が、次のように言ってます。

「「不可能なことなのに、それでもそこにある」。死が人々に抱かせる感情をこれ以上にみごとに表す叫びがあるだろうか」と。

「不可能なことなのにそれでもそこにある」

直後に現地に入ったときのコトバにならず涙が出てきた人は多いと思うのですが、そんな感じだった気もします。

僕らにとってあの震災は「できることならなかったことにしたいけど、それでもそこにある現実」だからこそ、「できることならなかったことにしたい」という思いの方が強い人は、あたかもなかったかのように振る舞うし、「それでもそこにある現実」という思いの方が強い人は現実をみつめて動こうとする。

その力点の違いから震災遺構などを巡って対立も起こる。

本質を把握すると、その現象をそれ以前よりも明晰に理解できるようになる。

僕の中で震災とは何なのか少し分かった気がした瞬間でした。






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Last updated  2013/09/30 06:07:53 PM
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