郷士 2
土佐の郷士は戦国時代のトーナメントに敗れた大名の遺臣で武士だったのですが、土佐だけが特殊だったのではなく他にもありました。加賀前田家は分家も合わせると120万石という最大の大名でしたが、その庄屋階級を「十村」と言いました。この十村というのは大地主でとても貧しい百姓というものではなく、農村をしっかりと把握していた村の支配者でした。加賀というのは浄土真宗(本願寺)の信仰の盛んなところで、室町時代には守護の富樫氏を追い払い地侍の共和政府を作っていたのです。京都の本願寺から派遣された僧侶と地侍が一緒になって浄土真宗の教団を組織しましたが、これを門徒といいます。この加賀門徒が、地侍を将校とし百姓を兵隊とする軍隊を組織し守護大名の軍隊を壊滅させてしまったわけです。以後戦国時代を通じて、加賀は大名がおらず地侍の連合政府を維持し続けました。加賀の隣の上杉謙信とは何回か戦っていますが負けませんでした。織田信長が大阪石山寺の本願寺を打ち破りようやく本願寺の武力も衰え、加賀も信長の武将たちの領地となりました。北陸を支配していた柴田勝家が秀吉に負けて加賀は前田利家に与えられました。前田利家は、肥後に入った加藤清正や土佐を領地として与えられた山之内一豊と同じようなリスクにさらされたのです。利家は地侍を敵にすることの不利を悟り、彼らを十村としてその特権を保証しました。この十村が武士なのか百姓なのかという問いは愚問だと思います。公式の場では百姓だったかもしれませんが、加賀藩内部では誰もただの農民だとは考えていなかったはずです。