お家大事 12
最後の将軍である徳川慶喜はその就任に際して徹底的にゴネて、「徳川宗家の当主にはなるが、将軍職には就かない」と言い出しました。なんでこんなことを言い出したのか多くの歴史家が理解に苦しみ色々な説をたてました。しかし、家康の密命を前提に考えると素直に理解できるのです。家康の密命は、「幕府瓦解の時は、水戸家は天皇方に付いて徳川という家の存続に努めよ」ということです。慶喜が将軍になった時は、幕府の瓦解は先の見える者にははっきりと分かっていました。慶喜自身頭が良い上に、非常に高い地位にあったので優秀な情勢分析もあり、幕府の行く末に幻想を抱いていなかったでしょう。そうなれば先祖である神君家康の命令どおり、幕府を立て直すのではなく徳川という大名家を存続させるのが自分の役割だと思ったのでしょう。慶喜は将軍職に就くことに徹底的に抵抗しましたが、最後には就かざるを得なくなりました。そして天皇を擁した薩長と幕府が全面対決することになってしまいました。ちょうどその時に坂本竜馬が大政奉還を提案し、それに飛びついたのが慶喜です。これによって慶喜は将軍職を放棄して徳川家を存続させることが可能となりました。ところが一度動き出した歴史の歯車は、こんな小細工で変えられるものではありません。薩長方は「討幕の密勅」を捏造し、大政奉還の提案者で人気のあった坂本竜馬を暗殺して(?)戦いをしかけました。余談ですが、誰が坂本竜馬を暗殺したのか未だに分かっていません。坂本竜馬の暗殺は重大事件ですから、勝った薩長側が必死になって調べれば分かるはずです。これが分からないというのは、薩長側が事実を明らかにする気が無かったということではないでしょうか。薩長の挑発でやむなく幕府側も軍隊を出しましたが、鳥羽伏見の戦場で薩長軍に錦の御旗が翻るのを見て、慶喜は戦わないでそのまま江戸に撤退しました。これも家康の密命を前提に考えれば素直に納得できます。以後慶喜はひたすら謹慎し、最後には許されて静岡に天皇から領地をもらい大名になりました。廃藩置県後は公爵となって余生を送りました。これが家康の密命の結果だとしたら、さすがに家康は大政治家で遥か将来を見通すことが出来たということになります。