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カテゴリ:織田作之助
町田の処女小説(1996年)、へらへら会話調で、転換が速いコミック調だから、若い人には感覚的に受けそう。
描かれるは、フーテン、フリーターの風太郎のようなファンキーなへらへら人物で、人を馬鹿に見下しながら、自分は何やの?同類かそれ以下、そしてとぼけた、かみ合わぬ会話や行動など、落語の世界にはまったような感じで、読むこちらもへなへなとなってしまうのだ。 また、ハングリーだが、何かとカネを工面して、がばがば飲み食いするのは、現代的な風太郎を表しているといえる。 織田作風の連綿文が見られるが、会話のやりとりが、地の文に「 」付きで連綿体で綴られるのは、町田の新機軸ではなかろうか? 「まあ、美術品だよ」「美術品?絵かなんか?」「いや、大黒」「大黒ってなに」「おまえ、大黒知らねぇのか」「知らない」「まあ、いいや。とにかく見ろよ」「ああ、見るよ。見るけど、見てどうするの」「買わねぇか」「何を」「だから大黒だよ」「だから大黒ってなに」…(26~27Pの電話での会話) 「バラック造りの平屋の商店、肉屋、魚屋、八百屋がごちゃごちゃ固まって、マーケットは形成され~」(28P)など織田作之助のような、生活臭を醸しだす店や物の羅列描写法がみられる。 本書の『河原のアパラ』にも、これでもかとゴミとして捨てる物品が書かれている。(124~125P) さすが、ミュージシャンだけに音楽的擬音・擬声語は小気味よく、随所に見られる。 ・コッケコッケコッケ、コカカカカーカコカカー、って、ジミ・ヘドリックスの「紫の煙」のイントロを弾き始めた。(56P) ・ユニゾンで、「ひゅうひゅらららひやらひゃぴぃぴぎぃっぴぎぃっ」と歌い…(『河原のアパラ』170P) 解説者が述べているように、梶井基次郎の『檸檬』のように、捨て置き方に大袈裟に凝る大黒の置物の物語だ。この指摘はおもしろい。 この大黒は人が背負っていて捨て切れない何かを意味しているのだろうが、あえていえば、福の神を捨てるという蛮勇心だが、このことへ深く思考を巡らすことは、町田の意図するところではく、失笑を買いそうだ。 古本でも古着でも、いざ捨てようとすれば、未練があって、その執着との葛藤の象徴なのであろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年04月23日 23時56分39秒
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