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日経連載小説「ふりさけ見れば」は、今日がその第97回。 日本人なら「ふりさけ見れば」と聞けば、誰しも「春日なる三笠の山に・・・」と口をついて出て来ようというもの。「遣唐使」「阿部仲麻呂」「ふりさけ見れば」は、いわば歴史の3点セット。 若干19歳にして遣唐使節の一員に選ばれた俊英、阿倍仲麻呂。唐の都長安で科挙の進士の試験に合格し、第5代皇帝玄宗に高官として仕えた。しかし、日本への帰郷の願いは玄宗の許しが下りず、ついに叶うことがなかった。 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 歴史に残るこの歌は、望郷の念にかられた仲麻呂が故国奈良の都を偲んで詠んだ歌と学校で習いましたね。 阿部仲麻呂はなぜ日本に帰らなかったのか?(あるいは帰れなかったのか?) 当時最先端を誇る唐の文化を学び、それを故国に持ち帰る。これが遣唐使に選ばれた俊英に課せられた使命。仲麻呂も帝の勅命に忠実に応えようと、15年の歳月を異国の都で勉学に励んだ。 そして次の遣唐使船が入港し、仲麻呂もその船に乗り込んで帰国するはずであったが。 その理由がようやく94~95回あたりから明らかになってきました。そして今日97回で阿部仲麻呂に、唐に残って新たにやらなければならない密命が下った。 安倍龍太郎は当時の日本の歴史を振り返り、仏教の教えを根幹にした国造り、大宝律令の制定、藤原京、平城京と立て続けに都を造営したこと、古事記・日本書記の編纂といった大事業がすべて唐との外交を対等に行うためのものだったと言っている。中でも日本の大和朝廷の正当性こそが、唐との外交上一番重要なことであったと。それを示す正当な史書を示せと唐は日本に要求していたのだと。 唐には周王朝以来の膨大な史書が保管されており、日本の天皇家はどこから日本に渡り、大和の地に朝廷をきずいたか、史書にはその詳細な記述が残っているはずだ。唐に残りそれを探れと。 仲麻呂はこの非情ともいえるあらたな勅命に、どのように応えるというのでしょうか?そしてやはり最終的に二度と日本の地を踏むことはなかったのは、何故か? ・・・安部龍太郎の筆が待たれます。 にほんブログ村 FC2ブログランキング 人気ブログランキング PINGOO! ノンジャンル お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2021年11月01日 06時32分37秒
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