カテゴリ:パパのひとりごと
こないだ、会社から帰宅すると一冊の小説が置いてあった
妻が読んでいるものらしい 「四十九日のレシピ」 いつもなら、タイトルだけ見て「ふ~ん」っていう感じなんだけど、何となく本を開いてみる この本は、突然に妻を亡くした夫。 嫁に行った、不倫の末別居中の夫と更にその愛人、亡妻が仕事として関わっていた福祉施設の若者が、様々な思いを抱えて、ストーリーを展開して行く 主人公は、先妻が他界してから、姉の勧めで亡き妻と出会い、再婚した 先妻との会いだには一人娘がいた 再婚の後の夫婦には子供が無く、妻は先妻の娘を可愛がるが、娘はあまり心を開かず、嫁ぐ 主人公はどちらかといえばワンマン亭主であった ある日、遊びに出かけるのに妻に弁当を作ってもらったが、カツサンドのソースが染みてきていることが許せず、妻を怒鳴りつけて弁当を持たず家を出る それが、妻の顔を見た最後であった -------------- この辺まで読んだとき、僕の妻がお風呂から出てきました 「どうしたん?(私の本を読むなんて)珍しいやん」 「そうか?」 「そうやん、いつもなら『しょうもない本読んで』って感じで私の本を見下してるやん」 「そうか?そんな失礼なことしてたか?」 妻と僕とは趣味趣向が異なる だから、本を買っても同じ物を読むという事がなかった 決して妻の趣味や本を見下しているつもりは無かったが、心の奥底で、自分の選んだ物が一番で、それ以外は大したことはないと、見下していたのかもしれない それが、言葉や態度の節々に現れて、知らず知らずに妻を傷つけていたのかもしれない 「そうか、それは悪かったなあ…反省」 「ほんまに、私もまだ読んでる途中やのに、勝手に読むなんてずるい(笑)」 「ちゃんと自分の読んだとこは別のしおり挟んどくわ、それに1冊を回し読みしたら本のためにもええことやん」 「しゃあないなあ(笑)」 ------------- 話は小説に戻ります 妻が亡くなってから、気が抜けたような生活をしていた主人公のところに、一人の若い女性が訪ねてくる 女性は、いわゆるガングロで黄髪で、いきなりタメ口をきく その人曰く、妻は万が一自分が死んだら、四十九日には大宴会をして見送って欲しいと、その費用まで預かっていると そこに、東京に嫁いだ娘が帰ってくる 亭主が不倫したのだと… 娘夫婦は結婚してから、子供がいないという一点を除いて幸せであった筈であった 夫は、相手の女のところに行ってしまい、仕方なく床に伏した義母の世話をしていたが、相手は妊娠したことから、自分の居場所は無くなったのだと帰ってきたのだ その時になって、実母の死後やって来た二人目の母もまた、子供がいなかったことで肩身の狭い思いをしたであろう事に思いを馳せる 継母は、自分が実家を離れて暮らすようになってからは、よく絵手紙を送ってくれた それには、父と丸々太った継母、それに子供の頃の自分が描かれていた 主人公のところにもう一人外国人の若者がやってくる 妻の四十九日に向かってちょっと変わった共同作業が始まる 誰かが、妻の年表を作ろうと提案した 大きな模造紙を買ってきて、書き込む ○年○月○日 生まれる 嫁いできてからは、一緒に撮った写真を貼る 娘は、継母から貰ったたくさんの絵手紙を貼りたいが、そのためには義母を残して出てきた家に戻らなければならない 東京に戻ると、義母の世話は誰かが頼んだケアマネが来ていた 義母は、自分が大事にしてきた宝石を形見として持っていって欲しい、売ってもいいから貰って欲しいと言う また、夫の不倫相手には男の子がいるが、相手はこのわが子が、情事の邪魔をしているとして疎んじる 家を出るとき離婚届けに判を押して出てきたのだが、夫は相手に「妻が判を押してくれないので離婚できない」と嘘をついていた その裏には、不倫相手のお腹の子は果たして自分の子かと疑っている様子であった 疲れて実家に戻ってきた ようやく四十九日の日になった 親族は、読経も焼香もない法事を否定する 挙げ句に、死んだ後妻に子供が無かったこと、更に娘に子供がないことを否定的に話す 傷つく父娘と若者 主人公は妻を思いだし涙をこぼす 妻が残した数多くの絵手紙は、夫にとって、血のつながらない娘にとって、施設の若者にとって、ある時は季節を感じさせるものであったり、ある時は生き方を教えてくれる指南書であったり、またある時は料理の仕方を書いたものであったりする しかし、それらはそれにとどまらず、亡くなった人が生きた証であり、一生を賭けて、残された者に遺した、人生のレシピである そういった意味で作者は「四十九日のレシピ」とネーミングしたのだろう ---------------- この物語の底流は、子供がいない夫婦にはどういう意味があるのかということだと感じた また、結婚したら子供が産まれるのが当たり前で、そうでないのはおかしいという、世間の思い上がった偏見が、いかに物事の本質をねじ曲げているかということである 無くなった妻には、子供はいなかったが、その誠実で愛情あふれた生き方は、長い年月を掛けて娘の気持ちを開き、更に社会的に疎外された施設の若者に生きる喜びを与えた 僕には、3人の子供がいる 子供を育てる事で自分たちが育てられていると思っている いつの間にかそれが当たり前になっていた しかし、子供がいない人はどうかというと、僕の知る限り、両親、社会などのために、献身的に働いている方が大多数である 誤解を恐れずに言えば、僕は自分という存在は、死んで「はい、さようなら」と終わるものではないと信じている 今は子供がいるが、過去に子供がいない人生を歩いたことがあるだろう あるいは未来に子供のいない人生を歩くこともあるにちがいない その時は、きっと子供のいないその人生でしか出来ない何かを、世のため人のために尽くせる人間になりたい この本を読んで、子供がいてもいなくても、自分の価値にいささかも違いはないのだと感じた 昨日帰宅して、妻に 「よかったよ、この本」 と声をかけた 自分が死んだ後、自分は残った者に対してどんなレシピが残せるだろう 深く考えさせてくれた一冊でした お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2011年02月27日 08時43分38秒
コメント(0) | コメントを書く |
|