カテゴリ:パパのひとりごと
全国から、更には世界各国から援助の手が差し伸べられている
本当にこの世は、愛に満ちています 僕は、中学生の頃、バス痛学をしていました その時、お年寄りに席を譲ると、とても喜ばれ、また、周囲の大人からも「えらいね」なんていう視線を感じ、とても気分が良かった ある時、友人と電車に乗った時、僕は座り、仲間は立っていた その時は、非常に頭が痛くて、とても周りの事を気遣う余裕がなかった そこにお年寄りが乗ってこられ、前に立たれた 申し訳なかったけど、あまりの気分の悪さに立つ事が出来なかった すると、友人が 「譲れよ、どうして譲らない!」 という風に目配せをし、更に足で小突いて来た すると、僕は頭痛よりも、訳知り顔で指図された事に頭に来てしまい、意地でも席を譲るものかと、変な言い方だけど必死に座っていた(小突かれながら座っているよりも、とっとと立った方が楽だったが… その後、考えた 自分が今まで席を譲って来たのは、相手のお年寄りの事を思ってではなく、単に感謝されたり褒められたりする気分の良さを感じたい為だけではなかったか それから、数ヶ月、僕は決して席を譲らなかった しかし、毎日近くに立つ老人の姿を見て、座っているのは、苦痛だった 数ヶ月後、僕は苦痛から逃れたい為だけに、また、席を譲るようになった 大人がどんな評価をするかなどは、関係なくなっていた でも、譲った時の、何とも言えない気分の良さはなぜなのだろうと、ずっと思っていた あれから長い年月が過ぎ、確信はないんだけど、思うところがある 人間は、天の摂理に基づいて動く時は、それが辛い仕事であろうとも、心に充実感や喜びが得られ、その摂理に反する時は、それがいかに快楽に満ち、愉快であっても、心に後ろめたさが残る きっと神様は、それを「良心」と名付け、この世を旅する我々に持たせてくれたのではあるまいか 被災地では、自分こそ苦しいにもかかわらず、どうぞと譲り合う姿が絶えないという また、世界中からの「どうぞ」の手 富のある者、無い者 力や技術の有る無しにかかわらず、身の丈に応じ、自分のものを人に譲る その時に感じる心地良さは、決して自己満足や偽善ではなく、人が本来あるべき姿に近づいた事を魂が受け取ったサインなのだろうと思う どうか、今後も譲り合う気持ちを忘れず、被災地の復興につながる事を願う お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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