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カテゴリ:学ぶこと
「徳川家重」(とくがわいえしげ)は、 1711年(正徳元年)に八代将軍吉宗の長子として 紀州藩赤坂中屋敷にて生まれ、 幼名は「長福丸」と言う。 1716年(享保元年)、 父の徳川吉宗が八代将軍に就任することとなり、 長福丸も父に付き従って 「江戸城二の丸」へ入る。 1725年(享保10年)に14歳で元服。 そして20歳になった1731年(享保16年)には、 皇族である「伏見宮邦永親王」の第4王女「増子女王」と結婚。 徳川家重は生まれながらの虚弱体質で、 障がいのために発する言葉が不明瞭であり そのせいか多くの人との交流を好まず、 大奥に籠りがちで、 青年となってからは 酒色にふけり猿楽能楽を好み益々 健康を損なっていくことになる。 どこの家でも現代も そうであるかも知れないが 長男があまりに頼りなく 酒と女と道楽に溺れていたら 「後を継がせる」のを躊躇うかも知れない。 それは、八代将軍吉宗も同じであった。 家重の弟の徳川宗武は幼い頃より勉学に励み、 聡明であったと伝えられている。 ここに 「継嗣問題」が頭をもたげてくるのである。 徳川家の基本は 「直系の長男による相続」 これを破ることで兄弟間や親族、 さらには派閥に与する家臣らによる後継者争いにより 徳川家内部の秩序が乱れるのは避けたい。 いろいろあって 残念ながら徳川宗武の擁立にはならず 1745年(延享2年)、 徳川吉宗は隠居して「大御所」となり、 徳川家重は36歳で九代将軍に就任。 さて、 徳川家の話の中で よく出てくる言葉に 「御三家」がある。 「尾張徳川家」「紀伊徳川家」「水戸徳川家」 そして 吉宗が定めた「御三卿」がある。 田安徳川家(田安家) - 始祖は徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男) 一橋徳川家(一橋家) - 始祖は徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男) 清水徳川家(清水家) - 始祖は徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男) これは、九代将軍を決める時に 生まれ出た結果とも言える。 さて、 この頃の「大奥」であるが‥ 家重は 父 吉宗が大御所として後見役をしていた間は 勿論ものことであるが 宝暦元年吉宗が亡くなってからも 将軍としての政治は行なっていない。 と言うことは 「大奥」で過ごすことが多く 特に側室お幸の方を寵愛した。 元文2年、まだ家重が世子時代に 徳川本家の第一子として嫡子誕生。 幼名は家康ゆかりの「竹千代」と名付けられて のちに「家治」と名乗る。 吉宗は この孫の家治を寵愛し期待をを寄せる。 この間、家重のもっぱらの近習は 大岡忠光である。 忠光は16歳で家重の小姓となり 家重に気に入られ 宝暦元年には一万石の大名に 取り立てられ、同6年には 武州岩槻二万石の城主となる。 忠光は 家重の不明瞭で聞き取りにくい言葉を よくよく聞き分けることができたことから 巧みに家重の気分を察することが出来たと言う。 当然ながら 家重のとのコンタクトとは忠光無しでは うまく行かないので 忠光は表使いも大奥でも 権勢を持ったと言える。 この忠光に認められたのが あの「田沼意次」であった。 大奥でもこの時代は かなり乱れていたことは 想像するに難く無いが 大御所吉宗や大岡忠光などの支えがあり 享保の改革期よりも 幕府財政は少しは安定し 幕府の貯金銀も増加している。 九代将軍家重は 徳川将軍の中で最も暗愚な将軍と言われているが 暗君を擁して専権をふるうような 人物も出てこない。 酒と女色に溺れてはいたが 元来、病弱のため そんなに多くの子も成していないのが 平穏を保てた一つの理由であったやも知れぬ。 1745年、八代将軍吉宗が逝き 1760年、大岡忠光が逝き いよいよ 側用人「田沼意次」の時代がやってくる。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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