新 緑仙の日々是好日(大奥‥そして田沼意次の時代)
八代将軍吉宗は大御所様へ九代将軍は家重にそして、吉宗の頃から家重の小姓として仕えていた田沼意次が九代将軍、十代将軍へと続いてゆく。吉宗の没後、世の中は「側用人」の政治の時代へとなってゆく。家重の頃から腐敗政治は続き、天明2年から7年間にわたるいわゆる「天明の大飢饉」「浅間山の大噴火」「農民一揆」の大型化。1745年(延享2年)、徳川家重は9代将軍に就任すると田沼意次の有能さを見抜き、将軍の住まいである本丸を守る本丸仕えに大抜擢。政治の表舞台への第一歩を歩み出す。田沼意次が如何に優秀だったか?その出世街道を見れば一目瞭然。1748年(寛延元年)には1,400石を、4年後には3,000石を加増され、1758年(宝暦8年)には、将軍と老中を取り次ぐ御側御用取次から10,000石の大名に取り立てらる。田沼意次も享保の改革を踏まえて倹約を奨励しますがなかなかうまくはいかない政治の世界。田沼は、幕府の財政赤字を食い止めるために重商主義政策を採る。株仲間の結成、銅座などの専売制の実施、鉱山の開発、蝦夷地の開発計画、俵物などの専売による外国との貿易の拡大、下総国印旛沼の干拓に着手すなどの政策を実施した。 その結果、幕府の財政は改善に向かい、景気もよくなった。 しかし、社会の初期資本主義化によって、町人も役人の生活が金銭中心のものとなり、そのために贈収賄が横行したのである。浅間山の大噴火と飢饉により疫病は蔓延し、景気が悪化し、田沼の打ち出す政策は失敗し、それによる都市部の治安は益々悪くなり、一揆や打ち壊しの激化が起こり江戸商人への権益を図りすぎたことを理由に贈収賄疑惑が高まり田沼意次への批判が集中する。田沼意次は蘭学を保護し、平賀源内などとも親交を持ち、士農工商の別なく実力主義に基づく人材登用もおこなった。この田沼意次と犬猿の仲と言われるのがあの「松平定信」である。その頃に流行った「狂歌」<田や沼や 濁れる御世をあらためて清く澄ませ 白河の水><白河の 清きに魚も 住みかねてもとの濁りの 田沼恋しき>松平定信もまた、吉宗と同様に「質素倹約」を旨としたことは田沼意次と変わりはないが生まれの差でしょうか‥田沼意次は、紀州藩の足軽の子供で松平定信は、吉宗の孫だから‥仲良くは成れないかもですね。それと結果論から言えば意次も定信も政治改革には失敗したことになるのです。田沼意次は賄賂政治の「ドン」みたいに言われているけれどそんなに悪い人ではないように私は思うのである。:追記:今、フジテレビで「大奥」が放送されています。このドラマの田沼意次はあまりに悪者に描かれていますねー気の毒なくらいな悪役ですにほんブログ村